館全体が物々しい雰囲気に包まれていた。
出陣を翌日に控え、斥候の兵が出入りするたびに空気が鋭さを増す。
闘牙王の館の一室では主立った重臣が集い、軍議も最終調整に入っていた。
「父上!」
若々しい、まだ僅かに幼さが残る声が重々しい空気を引き裂くように響く。
その声の持ち主は障子を乱暴に引き開ける。
勢いを殺されることなく敷居をすべり、柱に叩きつけられて大きな音を立てた。
「若様」
「殺生丸様…」
あまりにも無作法な登場に場が静まり返る。
年の割りに沈着すぎる物腰もあり近づきがたい印象の彼も、父であり大将でもある闘牙王への礼節だけは欠いたことがないはずだった。
その殺生丸が挨拶もなしに押し入り、普段は崩れることのない秀麗な面に怒りの形相をのせている。
これは一波乱あると円座の将たちは固唾を飲んだ。
「此度の軍議にそなたを呼んだ覚えはない。何用ぞ殺生丸。」
車座の中央に進み出る殺生丸に、上座にすわる闘牙だけは平然として言葉をかける。
その口調は用件の見当はついていると言いたげだった。
「知れたこと。なにゆえ此度も私をお使いにならないのか!」
「そなたの力は必要ないと判断したまで。子供がしゃしゃり出てくるものではない」
白い肌を朱に染める殺生丸と対照的に、父の表情は動かない。
自身を必要としない、あまつさえ子ども扱いするその言葉は殺生丸の矜持を切りつける。
「私はいつまでも子供ではありませぬ!」
「くどい!!」
聞くものを内側から震え上がらせるような大音声の一喝だった。その余韻が館がビリビリと揺さぶる。
固唾を飲む音さえ聞こえない静寂の中、立ち尽くしていた殺生丸はおもむろな動作で片膝をついた。
「…分かりました。出すぎた真似をお許しください。」
慇懃に頭を下げ、沈黙をたもったままの場を後にしようとする。
その後姿に父は溜息をついた。
「殺よ、そなたの風貌では軍勢のどこに紛れようとも気付かれようて。」
図星をつかれたようにピタリと足が止まる。
そうやって隠し通せないところがまだまだ子供だと親心に思う。
若干ふてくされたような表情が新鮮で、思わず苦笑をもらした。
「何を焦る。そなたほどの年で初陣を迎えぬ者とて珍しくあるまいに。」
初陣を果たす頃合の年ではあるが、まだ早いと控えさせてもおかしくはない年。
こう言ってはなんだが、初陣を張り合う友人がいるとも思えない。
父の指摘に殺生丸はいよいよ不機嫌そうに眉根をよせる。
“犬の大将の子は 父犬の尾が下に隠れる腰抜けよ”
「ちまたで流布されているのを私が知らぬとお思いですか」
誇り高い殺生丸が怒りをあらわにするのは当然とも言える。
あまり外界と関わらない殺生丸の耳にさえ入ってくる。噂話とはげに恐ろしきもの。
「まあ、そう怒るな。そなたの言いたいことも良く分かる。」
そうよな、と腕を組んで思案するそぶりを見せ、膝を打って立ち上がった。
悠然と殺生丸を見下ろして提案する。
「こうするとしよう。“わたしに一撃を加えてみせよ”それがかなえば戦列に加うることも許そう。」
にやりと笑みを浮かべ、準備運動だとでもいいたげに首をゴキゴキとならしてみせる。
「父上…に?」
「そうだ。――ただし、」
突然声が近くなり、父が一瞬の間に目の前に迫ったことを知る。
振り上げられた爪を知覚する前に殺生丸はとっさに身を引くと、爪の軌道に残された着物の袂がぱっくりと割られた。
「わたしも、逃げるだけではないがな。」
いい勘をしていると口角を深め、バキバキと指を鳴らす。
「…先の条件、ゆめゆめお忘れめさるな!」
父に歯向かうためらいを捨て、殺生丸も無意識に指を鳴らした。
自分の癖がうつったのか、偶然なのか、何の意図もないその動作が妙に嬉しい。
もう一度鳴られた音を合図に殺生丸は床を蹴った。
一気に距離をつめると袖をひるがえしながら素早く手数の多い攻勢をしかける。
それを最小限の動きだけでかわしながら、これは目くらましだろうと読む。
案の定、不意に攻撃がやんで眼前から姿が消えた。
「甘い!」
取ったつもりかと背後の気配に振り返る。
しかしその先に息子の姿はない。が、そこは歴戦の勇士。僅かな空気の流れで居場所を覚る。
上半身を傾げるのと殺生丸が天井を蹴ったのはほぼ同時だった。
頭上から襲い掛かった殺生丸の毒の爪は標的を外れ、床板を瞬時に溶かしてぽっかりと穴をあける。
間をおかずに闘牙の貫手の突きが襲いかかった。
殺生丸はうまいこと身をひねってかわし、床の穴が倍に広がった。
床と天井を交互に見て、闘牙は溜息をつく。
「やれやれ、大穴をあけよって…。」
「父上も他人のことは言えますまい。」
天井に殺生丸が蹴った穴がひとつ、床には共同であけた大穴がもう一つ。
しかも殺生丸の放った毒の残りがじわじわと床を溶かし、猛毒の煙を出しながらその大きさを広げている。
「お館様!若様!屋敷を破壊するおつもりですか!」
たまらず叫んだ家臣の声に、館の主はこれはしたりと庭へと飛び出した。…障子を突き破って。
広い庭の中央に降り立ち、
「ここなら良かろう。 参れ、殺。」
息子をいざなう。
「言われずとも…参ります!」
父のもとへ飛ぶ。
ただの跳躍でないことに気付き、闘牙は口元の笑みを一段と深めた。
――笑っておられる。
嘲笑でもなく、揶揄の笑みでもない。
ただ、楽しい。
こんな感覚は初めてのことだった。
おそらく自分も同じ表情をしているだろうと、殺生丸は短い飛翔の間に思った。
この勝負を楽しみながら闘牙は心の中で自嘲していた。
こうして手合わせをするのは初めてのこと。
その息子はすでに爪や毒、さらに飛空の術まで会得している。
恐らく、剣も教えることなどないくらいの腕前だろう。
――父が教える前に何でもかんでも覚えおって…。
愚痴を言っても詮無いことだと気持ちを切り替える。
戦にかこつけて彼の傍にあることがなかった、自業自得なのだから。
殺生丸が宙を蹴って爪を振りかざす。
闘牙王は真正面から受けきってやると身構えた。
2007/07/01続きます。