犬夜叉

初陣前夜


 激しすぎる親子の戯れで、庭の惨状は目を覆いたくなるものだった。
 植木はなぎ払われて根元から吹き飛び、築山は崩されて穴があく。
 池など初めからあったかどうかさえ分からない。
 それでも本来の姿でやりあわないだけマシなのだから始末に負えない。
「……だれか止めろよ。」
 誰かがつぶやいた。その間にも庭石が粉砕されて破片が飛んでくる。
「戦の前に死にたかねぇよ。」
 誰かがつぶやいた。それきり誰もなにも言わなかった。
 二人がこちらに来ないように念じながら、砂煙の中に見え隠れする人影を目で追い続けた。


 もうもうと立ち込める砂塵の中、殺生丸は口元を袖口でおおって辟易していた。
 目も鼻も利かない。ひとまず煙幕の中から出ようと上へ飛んだ。
 その刹那、地面を蹴る音を聞きつけた腕が殺生丸の素足を鷲づかみにする。
 焦燥とともに見たのは薄くけぶる腕の先で、にやりと犬歯を見せて笑う父の顔だった。
 次の瞬間には腕一本で投げ飛ばされていた。
 庭を仕切る土壁の一角に叩きつけられ、粉々に打ち砕く。
「う…」
 瓦礫にうもれる体を起こそうともがくも、打ち所が悪かったのか体が言うことをきかない。
 辛うじてたもっていたぼんやりとした意識は、糸が切れたようにぷっつりと途切れた。


「…おや?」
 すぐにでも埃まみれで立ち向かってくるだろうと身構えていたが、どうにも様子がおかしい。
 妖怪の中の妖怪、泣く子も黙るような大妖怪の血を引くとはいえ、当たり所が悪ければ当然死にいたる。
 最悪の事態が脳裏をよぎり、さっと血の気が引いた。
 すぐさま駆け寄って瓦礫を振り払う。外傷も出血も見られないが、その目蓋は閉じられたままだった。
「殺!」
 呼びかけて顔を覗き込む。
 その途端、ぱっちりと目が開いた。最悪の事態は脱したとみて、闘牙はほっと力を抜いた。
 殺生丸の方はゆらゆらと浅いところを漂っていた意識が呼びかけをきっかけに呼び戻され、頭の整理がついてきていない。
 眼前にある父と目が合って、思わず互いに見つめあう。
 その無意識下で、体だけは状況を覚えていた。
 一撃を加えるべき相手に爪が振るわれる。
 闘牙は首を引いて直撃をまぬがれたが、前髪の一部を切り落とされた。
 白銀の髪がはらりと落ちる。
「あっ…」
「ふむ…大事ないようだな。」
 自身の行動に驚いたような表情を見せる殺生丸に、不揃いになった前髪をもてあそびながら告げる。
「見事…」
「私の負けです。」
 続けられようとした称賛の言葉が遮られた。
 身を起こし、怪訝そうな顔を向ける父にはっきりと言う。
「このような卑怯な真似をしなければ、父上の髪に触れることすらかないませんでした。」
「相手の隙を突いたまでではないか。」
 噛み締める唇が小刻みに震えている。
 負けず嫌いではあるが、潔い。
「しかし、今のは仕切りなおしをするべきでした。」
「一撃は一撃だろうに。」
「ですが…」
「このままではわたしの気がおさまらん。」
 おまけに意地っ張り。
 一体だれに似たのかと、己を省みることなく腕を組む。


「殺生丸」
 その声音に殺生丸は反射的に姿勢をただす。
 上に立ち命を下す、逆らうことを許さぬ声。殺生丸には悪いが、ここは自分の意地を通させてもらう。
 それで殺生丸の望みもかなうのだから相子というものだろう。
「そなたに我が近衛をまかせる。」
 垂れていた頭を上げ、父の顔を仰ぎ見る。
 この大将は軍勢の後ろのほうで指示を飛ばすようなまどろっこしいことはせず、つねに最前線で動く。
 それが、己の隣に置くという。
 殺生丸を戦列に加えるというだけでなく、その力を認めたということ。
「この父の目の前で、そなたの爪牙の鋭さを見せてみよ。」
「――仰せのままに。」
 化け犬の親子が牙を見せて残忍な笑みをうかべる。
 そのぞっとする光景は、共に戦う者に勝利を約束し、敵の心を芯から凍らせる。
「おお、若様の初陣じゃあ!」
「派手に決め手やりましょうぞ!」
 ようやく親子のふれあいが終わったとみて家臣たちが顔を出す。
 気勢はさらに高まり、そこかしこから歓喜の声があがった。


 戦勝祈願の宴を早々に抜け出して、闘牙は自室に戻っていた。大酒ぐらいの彼には珍しいことだった。
 眠るでもなく、かといって明かりもつけずに外のおぼろげな光を部屋に入れて、ぼんやりと外を眺める。
 まだ月は昇っておらず、遠くで宴の音が聞こえる。
 やけくそ気味にさら地になった庭で催された宴だが、自分も殺生丸も早々に席を外したにもかかわらずどんちゃん騒ぎが加速している。
 酒がのめて騒げればいいのかと信頼を置く部下に苦笑して、雑音を耳から追い出す。

 “犬の大将の子は 父犬の尾が下に隠れる腰抜けよ”
 自分に逆らったことがなかった彼が怒りをあらわにした噂。
 どうやら殺生丸は、もう一つ流れる噂の方は知らないらしい。


 “犬の大将は 寵愛のあまり己が腕にわが子を囲っているらしい”


 それを恐れて戦に逃げたのだと言えば、あいつは何と言うだろう。
 そうしてしまいたいのだと言えば、あいつは何を思うのだろう。
「…なにを、ばかなことを…。」
 愚かで罪深い自分を嗤う。

 そして思う。
 見せてやるがいいと。
 お前の強さを。美しさを。
 そして思い知らせてやれ。
 お前は高嶺の花なのだと。天空の月なのだと。
 手を伸ばしたところで届きやしない。

 そう、このわたしが望んでさえ、手に入らないのだから。


 今頃殺生丸も初陣の興奮に眠れぬ夜を過ごしているのだろうか。
 いや、むしろしっかりと眠って鋭気を養っているかもしれない。
 彼の額に宿るのと同じ月が天空にのぼり、じきに戦の夜明けがくると告げていた。



2007/07/08

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