MISTEL

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 恋をした。
 名も知れぬ獣人の女に。首だけの獣人の女に。
 その頃の彼はまだ十五歳の少年だった。
 少年は思い焦がれるあまりに処刑されて晒されていたその首を盗み出した。
 あなたはどんな風に笑うのだろう。あなたはどんな声をしているのだろう。
 魔法こそ使えなかったが、元々頭の良かった少年は喜んで狂気に身を委ねた。
 それから、四十年。


* * *


 シメオンを倒してフォースを救い出したライオネルたちは魔獣の谷へ突入した。
 ライオネルとビビの二つのパーティに別れ、別々の入り口から侵入する。
 その内部は魔力によって歪められた不自然な空間だった。
 様々な町から景色の一部を切り取って継ぎ合わせたような、ただ立っているだけで眩暈がしてくる。
 しかしライオネルたちとはぐれたアロンが迷い込んだ部屋は、町の風景の他の部屋とは一線を画していた。
 床一面に注がれている得体のしれない液体。そこから立ち込める薬臭い臭気が鼻を衝く。
 その中央に石板が鎮座するだけの薄暗い部屋だった。
 そこで激戦を繰り広げたばかりのアロンは肩で大きく息をして呼吸を整えた。
「まさか、ガーヴィン将軍がアンデッドにされていたなんて……」
 アロンと共にデザートシティに雇われていた頃はまだ人間だったはずだ。
 その後ビビたちを襲い、倒されたと聞いていた。そしてシメオンに利用されたのだろう。
 敵とはいえ、かつては同僚だった人間と戦うのはいい気分ではない。
 複雑な思いを抱きながらもどうにか落ち着くと、アロンは石碑に歩み寄った。
 ガーヴィンが石碑を背に守るように立っていたこともあり、この部屋に入ったときから気になっていた。
 文字が彫られているのを見て取り、文面を追うアロンは驚愕に目を見張った。
 その時、石板の影から物音がして息が詰まる。
 先ほどの戦いで石碑の一部が壊れ、空洞がのぞいていた。
 そこからおもむろに姿を現した人影があった。


わが愛しの 名も知れぬ獣人の王女
寄せ集めの肉体には 不完全なる魂しか宿らなかった
わが身の未熟の戒めに
わが研究が完全なるものとなるまで
ここに眠らせる


 純白のドレスに身を包んだ女の姿。
 しかし僅かに覗いた肌はつぎはぎだらけで、特に大きな継ぎ目で縫いとめられた首が痛々しい。
 先程の戦いの騒ぎで目覚めたのか、石碑が壊されて封印が解けたのか。
 健康な血が通っていたならば薔薇色に輝くであろう頬も色が失せ、虚ろな瞳は何も映さずに虚空を彷徨っていた。
 せめて別人であってほしいという一縷の望みは絶たれてしまった。
 その蒼白な顔は紛れもなく、忘れえぬ獣人の王女のものだった。
「そんな……」
 二の句が継げずたたらを踏んで後ずさるアロンに王女の目が留まる。
 条件反射のようにアロンへ向けて手を掲げてくる。その動作への既視感に泣きたくなった。
 四十年前王女が自分を助けてくれた時と、十年前にバーバラがアロンに科した罰。
 過去に助けてくれた魔法を自分に放とうとしていることに、アロンの胸が張り裂けそうになった。

 彼女が生きていてくれたなら。蘇ってくれたのなら。
 子供の頃から何度も夢想したことだった。
 命の魔法「リバイブ」は瀕死の意識を呼び覚ますことはできても、失われた魂を呼び戻すことはできない。
 シメオンは曲りなりも死者の蘇生を完成させかけていた。
 自分もシメオンに声をかけたれていたら、グレンやガーヴィンのように彼に従っただろうか。
 これは夢が叶ったと言えるのだろうか。
 一瞬でも脳裏にそんなことを思い、すぐさま打ち消した。

 ――あなたとだけは、戦いたくなかった……。

「ブレイズ」
 しゃがれて抑揚のない声が魔法を唱える。
 アロンは意を決して顔をあげると、唇をかみしめて向かってくる炎の玉を見据えた。
「エアカッター!」
 炎の魔法を風の魔法で薙ぎ払う。
 王女は何が起きたのかわからないような顔をし、アロンがまだ立っているのを見て取って続けざまに魔法を放ってきた。
 炎を風で打ち消し、雷撃の魔法を氷の塊で受け止める。閃光と衝撃が目まぐるしく交差する。
 一進一退の攻防が続くも、アロンは今一歩の踏ん切りがつかずに攻勢にでることができない。
 理性の飛んだ王女の魔法はその一つ一つが重く、徐々に上級魔法に切り替えてくる。
「バーニング」
 炎の上級魔法を唱えられ、同じ魔法で相殺しようと詠唱を試みるも、
「……っ」
 処刑されて焼かれた王女の躯が脳裏にフラッシュバックして詠唱が止まる。
 その隙を突いて炎の柱が幾重にも絡み合って襲いかかる。
 すんでのところで我に返って風の魔法を放つも、相殺しきれずに熱風と余波がアロンを舐った。

 間違っている。
 いくら考えてもその結論にしか至らなかった。
 シメオンは研究の代償にデザートシティのマイスター王を狂わせ、何百人もの市民を病ませた。
 もしもその所業を知らなかったとしても、アロンはシメオンの甘言には乗らなかっただろう。
 眠った人を揺り起こすのは酷なことだ。
 死者を無理矢理呼び戻すのは罪深い。
 まして未完成の術で生者として生きられず、死ぬこともできないなど哀れなだけだ。

 アロンはまとわりつく残火を振り払うと前を見据え、もう後退ることもしなかった。
「ライトニング」
 王女が掌を高く掲げて雷の呪文を唱えると、中空に帯電が起こり閃光が煌めき始める。
 その長い充電時間を突き、アロンは先んじて詠唱を終えた。
「アースクエイク!」
 地響きと同時に地面がめくり上がり、宙に砕けて唱えた魔法ごと王女を埋め尽くす。
 どうしても、炎の魔法を使うことができなかった。


 意識が朦朧としていた。
 すぐそばに誰かがいるのが分かったが、どういうわけか首を巡らせることすらできない。

 ――そこに…いるの……だれ……?

 目だけを動かすと誰かが自分の顔を覗き込んでいるのがぼんやり見えた。
 見たことのない人間だった。

 ――わたし…は……このこを…しっている……?

 見たことはない、けれど知っている。
 そこにいる人物は大人の姿をしているが、彼女の目には子供の姿が映っていた。
 誰かの死を悲しんで泣きじゃくる子供が。
「ないて、いるの?」
 相手は驚いたような顔をして、悲しそうに眉を八の字にまげたままで微笑んだ。
「大丈夫です、泣きません。私は男ですから」
 強い子だと思った。

 ――だけど……かなしいときは…がまんしなくても、いいのに……

 ふと思い出す。男の子なのだから泣いてはだめだとたしなめたのは自分だったと。
 そして唐突に意識が澄んでゆく。
 思い出したのだ。
 ずっとこの子に聞きたくて、ついに聞きそびれてしまったことを。
 ただ一つの心残りを。


「ねえ、あなたのお名前は?」
 子供をあやすように優しく、先程までの曖昧さの消えた明瞭な口調で尋ねられてアロンはあっけに取られた。
 アンデッドが自我を保つのは稀有なことだ。これも彼女の意志の強さからくる奇跡だろうか。
 四十年前に慰めてくれたような声音に懐かしさがこみ上げてくる。
「私の名前はアロンです」
 王女は大切なものを仕舞い込むようにアロンの名をつぶやく。
 少しずつ、夢を見ているような瞳から意識の色が失せていく。
「あなたの名前を、教えてください」
 アロンが聞き返すと王女は微笑んで唇を持ち上げ、吐息が言葉になる前に意識を手放した。


 アロンは王女を見つめて屈みこんだまま動かなかった。
 ほどなくして倒れ伏した王女の体が砂のように崩れ去った。
 骨と共に残されたドレスが場にそぐわずに浮いていた。
 この骨は一つ一つが別人のものなのかもしれない。
 墓から掘り起こされたのか、シメオンの手にかけられたのか。
 どっちにしろ、丁重に葬ってやらねばなるまい。
「……また、名前を聞きそびれてしまいましたね」
 バーバラの科した罰が生きている証なのだろうか。
 アロンは感慨無量の面持ちで、人間のものとは少し違う形をした頭蓋骨を拾い上げた。
 四十年前にデザートシティで処刑され、セントラルシティに送られた首。
 その後センターでしかるべき処分をしたと記録に残っているが、アロンの調べでは盗まれたことがわかっていた。
 戦後の処理に紛れて下手人はわからずじまいだったが、これはシメオンが盗み出したとみていいだろう。
 シメオンに間違っても感謝などしない。
 けれど名状しがたい感情が渦巻いて、アロンは頭蓋を抱きしめた。
 本当はすぐにでもライオネルたちと合流しなければならないし、ビビたちのことも心配だった。
 けれど、今だけは。
「もう、誰にも邪魔はさせません」
 アロンは獣人の王女の安らかな眠りを祈った。


番外:ミカル→



2011/06/12

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