ライオネルを送り出したその夜。アロンは自室で入手したての書物を手繰っていた。
セントラルシティの城内にあるため部屋の広さこそかなりのものだが、調度品は彼の就く地位にしては質素なものばかりだった。
質素堅実を旨とするというよりも、もともと出が庶民なために装飾過多な物は落ち着かないだけなのだ。
それがかえって市民の人気を呼んでいるのだが、どうにも面映ゆい。
ライオネルは今ナシェルたちと城下の宿屋に泊っているはずで、彼の若さゆえの我儘もこれで最後になるだろうという予感があった。
そしてナシェルがハーフ・ビーストであることが良い方へ働けばいいのだけど、と淡い期待を寄せていた。
そうして思いを巡らせるうちに本の内容に没頭していく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ひゅうと一陣の風が舞い込んで蝋燭の火が掻き消えた。
確かに閉めてあったはずの窓に目をやると、バルコニーの扉が開いており、そこに人影があった。
全身を覆う外套で性別すら推し量れない。
「……どちら様でしょうか」
さしも人のいいアロンも本を机に置き、警戒感を全面に押し出して誰何する。
三十の半ばという若さで王の側近を務めることもあってか、何者かの襲撃を受けたことも過去にあった。
だが今回の訪問者はそんな輩とは雰囲気が違う。
目深にかぶったフードの奥から射るような鋭い視線が送られてくる。
ややあってから訪問者は口を開いた。
「こうして見えると、あの頃の面影がよく残っているな」
女の声だった。少し年を経た、意志の強い声音。
相手は自分を知っているようだが、アロンのほうに覚えがなく首をかしげた。
「どこかでお会いしましたか?」
「無理もない。私も初めはわからなかった」
アロンの疑問に女は淡々と答える。
「私もお前も年を取った。早三十年は昔のことだ」
三十年という言葉にアロンははっと息をのんだ。
それは彼の人生を大きく変えることになった出来事があった年。
脳裏によみがえる声。
『人間の子供!? 危険です!人間は敵ですよ!!』
思い起こされたのはアロンを救った獣人の王女を迎えにきた側近の存在。
あの頃彼女は少女の時分で、アロンはまだ五つだった。
「あなたは獣人の……」
名前が思い浮かばずアロンは口ごもった。
女はアロンのそばに立つ衣装掛けに目をやり、政務で着るローブの傍らに護身用の杖が立てかけてあるのを見て取る。
「武具を取らぬのか。私は貴様に報復するやもしれんぞ」
敵意を隠すことなく凄んで言うと、アロンは静かに女と対峙した。
「あなたがそれを望むのならば……」
相変わらず表情は見えないが、意表を突かれて不審がる素振りが感じられた。
「あの方は子供に罪はないと言ってくれた。
けれど幼い日の軽率な行動は、取り返しのつかない結果を招いてしまいました」
母親のいないアロンには父親が唯一の家族だった。
兵士だった父に頼れる身寄りがなかったためにアロンを教会に預け、そしてそれっきり帰ってこなかった。
寂しさのあまり、おとなしく待っていろという父の言いつけを破って、預けられた教会を抜け出してしまった。
父が見つかるはずもなく、迷い込んだ森の中で泣いていたところを王女が救ってくれた。
そしてそのために獣人の王女は命を落とすことになってしまった。
あの子供さえいなかったら。
女は王女と別れたあの日から何度もそう思っていた。
認めたくはないが、戦争が起こったのはバルナバら過激派を抑えきれなかった獣人の側にも責がある。
だがあの子供さえいなかったら王女は死なずに済んだのだ。
王女さえ生きていれば獣人の再建はもっと容易かったはずだ。
あの時抱いた憎しみは未だに色濃く巣食ったままだった。
――そうだ、あの子供が、人間が……
瞬間、女の脳裏にこの世でただ一人愛した人間の姿が閃光のように閃いて、消えた。
己の夫、ナシェルとビビアンの父親。グレンの姿が。
二人は己の心の底にある黒い澱みの正体に気が付いた。
「人間に対しての恨み……憎しみ……」
女は苦いものを吐き出すようにつぶやいた。
「私が憎んでいる人間は、もうあの時の子供だけなのかもしれないな」
女がアロンに向かって腕を伸ばす。
手のひらに魔力が集中するのを感じ取り、アロンは一瞬だけ泣くような笑うような曖昧な表情を浮かべた。
すぐさまそれを打ち消して、おもむろな動きで目を閉じた。
三十年前、アロンの身勝手な行動を誰も責めなかった。
だから、誰かに裁かれたかったのかもしれない。
すぐ脇を熱が通り過ぎてアロンの髪をなぶった。
蝋の溶けるにおいが鼻を衝いて振り返ると、二股の蝋燭立てから一本蝋燭が消えていた。
あっけに取られるアロンに女が告げる。
「王女は貴様を生かした。……それに、お前を殺しては獣人にとって痛手となりそうだ」
もっとも、命乞いでもするようなら部屋ごと消し炭にしてやるつもりだったと事もなげに言う。
女はこれ以上長居する気はないとみえ背を向ける。アロンはその背に慌てて声をかけた。
「お待ちください、一つお尋ねしたいことが!」
足を止めて振り向きはしたが近寄ることを許さず、その場で用件を促した。
「あなたと、あの王女の名を」
三十年前に起きた出来事をアロンは一日たりとも忘れたことはないが、その記憶は途切れ途切れに断片的で。
彼女と王女が名前を呼び合っていたという記憶はあるが、その内容をどうしても思い出せないのだ。
父の死と、自分を助けてくれた獣人の死、そして慣れない施設での暮らし。
その一つ一つが重く、すべて受け入れるにはアロンは幼すぎた。
痛切さを帯びた嘆願に女はほだされそうになる。
あの子供に罪がないとは思わない。それでも、
――あなたの言う通り、彼も戦争の被害者の一人なのでしょうね……
心中で王女の名をつぶやき、アロンに向き直った。
「確かお前はアロンとか言ったな。お前の望みの半分は叶えよう。私の名はバーバラだ」
アロンは口の中で「バーバラ殿」とつぶやいて頷き、次いで半分という言葉に首をひねった。
その様子を見てバーバラは人が悪い笑みを浮かべ、しかしそこに悪意の色が見えないことにアロンは目を丸くした。
「もう半分の望みの王女の名は、お前への罰として科そう。 私は教えてやらん」
彼女がアロンという人間にだけ科すことのできる罰。
アロンはその温情と制裁の混じった言葉を受け止め、胸に刻み込んだ。
「受けましょう」
アロンの返答に満足そうに頷き、バーバラは今度こそ一縷の未練もなく踵を返した。
バルコニーに出る直前にはたと足を止め、独り言のようにささやいた。
「……もしも私の娘を見かけることがあったら、色々と世話をしてやって頂戴」
アロンが聞き返す間もなくバルコニーに出ると、途端に姿が見えなくなった。
我に返ったアロンが後を追うが、中空に張り出したバルコニーに人影は見当たらない。
なおもあたりを見回す人間の姿を空から一瞥すると、獣人は息子の泊る宿屋の方へと翼を向けた。
????→
2011/06/12