月のない夜だった。
闇を寄せ付けまいとするように村中に篝火がたかれ、まるでウエペケレが燃えているように見えた。
男たちが妖怪の襲撃を叫び、女たちは家と子供を守りながら魔神が妖怪をけしかけたのだと囁きあう。
その喧騒の合間をぬいながらサマイクルは火を絶やさぬよう喚起を促し、自身も手近な火に燃料をつぎたした。
そこへ狼姿のオキクルミが駆けてきて、人の姿に変わってサマイクルと肩を並べた。
「村に入り込んだ妖怪はあらかた片付けたぞ。」
「そうか、だがまだ気は抜けぬな。」
警戒を解かないサマイクルにオキクルミも同意して頷いた。
それでも少しだけ思考をめぐらせる余裕ができ、一体何が起こったのかと腕を組んで首をひねった。
未だ妖怪が沸き出でると言われるラヨチ湖、狂猛な妖怪が闊歩するカムイの土地柄、村に妖怪が侵入してくることは稀ながらあったことだ。
しかしこうまで大群で、しかも徒党を組んだように攻めてくることはなかった。
すでに魔神や妖怪によって多くのオイナ族が死傷するも打つ手がなく、せめて早く夜が明けてくれればと祈ることしかできないでいる。
そこへ二人の名を呼びながらカイポクが息急き切ってかけこんできた。
「大変だよ、お爺がいなくなったんだ!」
高齢の村長は女たちと子供をなだめていたはずだが、カイポクが少し目を離した間にどこかへと姿を消してしまったらしい。村中を捜しても見つからないとうったえる。
息を整える間もなくまくし立てたために咳き込むカイポクをオキクルミが宥めた。
ただならぬ様子に神殿近くの住まいから避難していたトゥスクルも加わり、サマイクルから事の経緯を聞かされ心当たりを訊ねられる。
「ひょっとすると…神殿に…?」
その呟きに逸早く反応したのはオキクルミだった。
呼び止める声も聞かずに神殿へ続く門の方へ疾走し、あっという間に見えなくなる。
だいぶ落ち着きを取り戻していたカイポクをトゥスクルにまかせ、混乱を避けるために村長の不在を気取られぬよう言い置いてサマイクルも後を追った。
神殿への道すがら、オキクルミはラヨチ湖の眼前に鎮座するクトネシリカに一瞥を投じた。
何の変哲もないことに舌打ちをくれてやりたくなった。
すぐに追い付いたサマイクルが隣に並ぶと、どこか心が落ち着く自分がいて苦笑する。
気を取り直して迫る神殿へ目を凝らした。
「ケムシリ爺!」
トゥスクルの読み通り魔神を鎮めようと単身で乗り込んでいた。
だが今や精根尽き果てたように倒れ伏し、白い雪を赤いものが染めている。
敬愛する村の長老に呼びかける。
すると二人の呼びかけに答えるように呻き声をあげ、小さく身じろいだ。
傷も相当深いようだが、霊力を使い果たしたらしく意識をたもつのもままならないようだった。
最悪の事態はまぬがれたようだが、依然一刻の猶予もない状態にかわりない。
「ひどい傷だ、一刻も早く村へお連れせねば。」
オキクルミは頷き返し、背負いあげようと手をのばす。
その瞬間、言い知れぬ不穏な気配が二人の背筋をなで上げ、冷たい汗が噴き出した。
意を決して振り返ると、それは凍りつく。
暗い空から見下ろしていたのは、他でもない黄金魔神と白銀魔神だった。
ふくろうの姿をした双魔神は、獲物を奪うのを咎めるように上空から威圧してくる。
「こんなときに…!」
どちらともなく嗟嘆の声をあげ、しかし負けじと睨み返して一触即発ながら双方とも動きがとれない。
走れば村まで逃げ帰れるかもしれないが、魔神を村に入れるわけにはいかない。
その膠着状態のなかオキクルミが一歩進み出て、サマイクルと村長を庇うように立ちはだかる。
「オキクルミ…?」
剣の柄に手をかける友人に、どういうつもりだと問いかける。
長い付き合いで半ば答えが分かってしまい、ほとんど問い詰めるような口調になる。
「ケムシリ爺をつれてここから離れろ。」
「一人で残る気か、お前を置いて逃げるなどできん!」
そのサマイクルの反応も想定の内だったのか、オキクルミの口調はあくまでも冷静そのものだった。
「逃げるのではない。お前が村長を救うのだ。」
早駆けが得意なのはどちらだと問われ、サマイクルは言葉に詰まる。
腕っ節の強さならオキクルミに負けるが、駆け競べとなればサマイクルに分があった。
双魔神に向き合ったまま視線だけをサマイクルに投げ、毅然と笑んでみせる。
それでもなお言い募ろうとする頑固な自分をねじ伏せた。
有事の際はそれができる人間だと知っているから、オキクルミは村長をたくした。
「行け!!」
オキクルミが叫ぶと同時に凍りついた時が一気に動き出す。
軽い長老の体を背負い上げると、サマイクルは一目散に走り出した。
反射的に黄金魔神モシレチクは妖樹の弾でその後姿を狙い撃つ。
それはサマイクルに届くことなく、立ちはだかるオキクルミの剣によって真っ二つにかち割られた。
しかしその脇を鋭利なものが通り抜け、防ぐことができずに肝を冷やす。もう一体の魔神の存在を失念していた。
銀色魔神コタネチクが放った氷柱はまっすぐに前を走る標的をとらえていたが、空を切る音を聞いたサマイクルは一瞬の判断で佩刀を抜き、腰を捻ってなぎ払った。
眼前に迫った氷柱を打ち砕いたが、防ぎきれなかった氷柱が足元に突き刺さる。
体を反転させた不安定な体勢でその氷柱に足をとられ、意識のない長老をずり落としそうになる。
「すまん」と一瞬合った目で告げてくるのに頷き返して体勢を整え、サマイクルは再び走り出す。
「すぐに戻る、無茶するでないぞ!!」
一条の矢となって疾走する友の背を止めさせまいと立ち塞がる。
双魔神はその献身的な行動に心動かされるでもなく、嗤うこともない。
ただ機械的にオキクルミを見下ろしていた。
* * *
ケムシリ爺の家の前は、今や多くの村人でごった返していた。
この異常事態に光明を見い出そうと、信頼の厚い村長の指示と意見を求めている。
こうなっては不在を隠し通せるはずもなく、事情を知るカイポクとトゥスクルが必死にありのままを伝えて村人たちを宥めていた。
「見ろ、サマイクルだ!」
村人の一人が叫んだ。指差す方からサマイクルが駆けて来るのが見える。
その背にある村長の姿にそこかしこから安堵の声がもれ聞こえるが、ぐったりとした村長に動揺が広がる。
「お…お爺!」
「カイポク、村長を頼む。」
すぐさま村長を室内へ担ぎ込むカイポクに数人が従った。
それを見届けてサマイクルはトゥスクルに不在の間の妖怪の動きを訊ねた。
「あれから一応は小康状態をたもっているが…」
またいつけしかけてくるか分かったものではないと言う。
報告に頷いて、村長の姿に狼狽し取り乱す村人をなだめて呼びかけた。
「各所に歩哨を立てよう。ただ決して一人にはなるな。戦える者は交代して眠れ。
手の空いた者は湯を沸かして負傷者と凍えた者の手当てを。」
手際よく下される指示に今はうろたえている場合ではないと冷静を取り戻し、一同に頷き合って自分たちの村を守るために動き出す。
ある者は見張りに加わりに行き、ある者は火にくべる薪を取りに走った。
トゥスクルも村長の治療を手伝おうと立ち去りかけ、はたとオキクルミの姿が見えないことに気付く。
サマイクルを捜すと彼は矢立を背にすえ、大弓をたずさえて神殿への道を再び踏み出そうとしていた。
「サマイクル、オキクルミはどうした。どこへ行こうというのだ!」
サマイクルは門を仰ぎ見てトゥスクルに向き直り、決死の覚悟を秘めた瞳で言い渡す。
「もし一刻経って誰も戻らぬときには、この門を閉ざせ。」
「なっ…」
トゥスクルの反論を許す前に狼に姿を変えて雪を蹴る。
放たれた矢のように速く。そしてただ友の無事を祈った。
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2007/04/28