犬夜叉

呼び名


「どこまでついてくる気だ。」
 弥勒が後をつけていた妖怪は足を止め、振り返ることなく問うてきた。

 犬夜叉とかごめが井戸の向こうへと消え、その間こちら側で四魂の欠片の情報を集めていたのだが、目ぼしい情報もなく一先ず楓のいる村に帰ろうと決めた。
 近道をしようと森の中を突き進んだものの、弥勒の予想を裏切って夜を迎えてしまう。仲間がいればともかく、森の中で眠るわけにもいかず、梢からもれる月明かりを頼りに歩き続けていた。
 そんな折のことだった。彼の妖怪を見かけたのは。
 犬夜叉の異母兄、殺生丸。
 初め殺生丸は敵として自分たちの前に現れた。今でも対立する相手に違いはないが、最近ではあからさまな敵対はしていない。
 振袖風の長い袂と、彼を包むような豊かな毛皮を揺らし、徒歩にて歩む白い影。
 初めて会い見えたときから脳裏に焼きついて離れない、その鮮烈な姿。固い意志の面。
 ふわりと舞う彼の長い髪に誘われるように、思わずその後をつけたのだった。

「いやあ、やはり気付かれていましたか。流石は兄上殿ですなぁ。」
 別段悪びれる様子もなく、身を隠していた木の陰から顔を出した。
 そんな弥勒に初めて殺生丸が振り返る。
 しかし何を言うでもなく、何をするでもなく、まるで観察でもしているかのようにじっと見詰めてくる。
 何か彼の気に障るようなことをしたのかと弥勒は戦々恐々としていたが、殺生丸は弥勒を一頻り眺めると踵を返して歩き出した。
 殺生丸が何を考えているのか弥勒には良く分からないが、気難しそうな彼のこと、気紛れだろうと判断して弥勒も再び後に続いた。

「それにしても、このような所でお会いできるとは奇遇ですなぁ。」

「りんと言いましたか、あの子供と邪見はどこかで留守番ですか」

「兄上殿はどちらに行かれていたのです?」

 返事はないだろうと分かりながらも、弥勒は話し掛け続ける。
「…いつまでついてくる気だ。」
 いい加減業を煮やしたのか、それでも歩みを止めることはせずに問い返してきた。
「ここで会うたも何かの縁。せっかくですから我々の親睦が深まればと…」
「いらぬ世話だ。」
「そのような釣れないことをおっしゃらずに…。」
 突っ返すような返事にしりごみしながらも、めげずに話し続けた。
 どこまで近づけるか、歩み寄れるか、図るように。
「まあ、今は兄上殿と話せただけでもよしとしますか…。」
 独り言のようなつぶやきに、殺生丸が振り向いた。
 今のは少々物言いが過ぎたかと、今更ながら口をつぐむ。
 だが、弥勒の心配をよそに、彼は別のことが気に障っていたらしい。

「私は貴様の兄になった覚えはない。」

 一瞬なんのことかと面食らうも、自分が彼を“兄上殿”と呼んでいたことに気付く。
 その呼び方がなぜ彼の琴線に触れるかは分からないが、“犬夜叉の兄”と呼ばれるのが嫌なのだろうと一人合点をする。
「では、なんとお呼びしましょうか?」
「…好きにしろ。」
「そうですなぁ、呼び捨てにするのは気が引けますし“殺生丸様”は堅苦しい…。」
 うんうん唸る弥勒に、殺生丸は背を向ける。
「殺ちゃん…」
 聞き捨てならぬ呼び名に、ものすごい勢いで弥勒を睨めつけた。
 もともと戯れのつもりだったのだがさすがに怖じて、冗談だと必死に宥めた。
「…となると“殺生丸殿”…」
 再び悩み出した弥勒を一瞥して、うんざりとしてもう振り返るまいと踵を返す。

「“せつ”」

 その響きの妙な既視感に、思わず弥勒へ向き直った。
「“殺殿”などいかがでしょう? 程よく短くて呼びやすくて…」


『 殺 』


 過去に、自分をそう呼んだひと。
 そう呼んで、己の髪を梳いた、大きな手のひら。
 最期の夜に見送った、傷付きながらも強靭な背――。




「殺殿」
 さらりと髪を梳く、懐かしい感触。

「どうしました? 気に入りませんか?」
 記憶の淵から意識を戻して、目の前にいる男に髪を撫ぜられていたことに気付く。
 人間の法師で、全体的に黒の印象を受ける男。記憶の中のひととは、重なる所などないはずなのに。
 懐かしさに似た何かがこみ上げてくるのが、信じられなかった。

 その手から逃れるように身を引くと、弥勒も慌てた様子で手を引いた。
「す…すみません、つい手が出てしまい…」
 呆けて他人に髪など撫でられていた己の失態に舌打ちしたい気分だった。
 こんな人間の男ごとき、わざわざ相手をしてやる必要はない。
 そう思い至って弥勒に背をむける。
 妖気があたりの空気を乱し、殺生丸の髪が揺れた。

「あのっ…“殺殿”ではいけませんか!?」
 相手の飛び去ろうとする意図に気付き、去ってしまう前にと弥勒が尋ねる。
 つま先が地面から離れようかという一瞬、殺生丸は弥勒と目を合わせた。

「好きに呼べ。」

 それだけ言って、月に吸い込まれるように空へと舞い上がっていく。
 あっと言う間に弥勒の前から去っていった。

「殺殿…か。」

 ――まるで、俺と誰かを重ねているような瞳だった…。

 知らず手が伸びて、彼に触れていた。白銀の光沢を放つ、冷たい髪。
 抵抗なく指が通って、梳いた指によく馴染む。
 彼とそんな間柄になれたら。そんな身勝手な空想を抱かせた。
 自分を見ているようで、どこか遠くを見ているような、揺らめく瞳。
 普段彼が見せる意志の強い輝きとは正反対の、それ。
 すぐにいつもの彼に戻ったが、弥勒の手から逃れた彼に、嫌悪の感情は見出せなかった。
「次に会って名を呼ぶのが、楽しみだな。」
 星ほどになってしまった白い影を見上げて、白む空に浮かぶ有明の月を目指して歩き始めた。



 ――何故だろう。

 朝の匂いをはらんできた風に髪を躍らせて、自問する。

 ――何故あの男に“殺”と呼ぶことを許したのだろう。

 犬夜叉の連れとはいえ、あの法師と深い関わりがあるわけではない。
 記号のように、ただの“犬夜叉の兄”と呼ばれたくなかったのだろうか。

 では、何故?

「……“殺”となど、父上しか呼ばわなかったのだがな…。」
 答えが出ずに呟いて、振り切るように己の連れが待つ場所へと宙を蹴った。



2006/08/13
ほんのりと父×殺風味。

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