犬夜叉

雨宿り


 薄暗い雲が低く垂れこめた曇り空。いつ降り出してもおかしくない空模様だった。
 果たしてしとしととか弱く泣き始めたと思うと、にわかに桶をひっくり返したような雨を降らせてきた。
 そんな雨の中、森の道なき道を駆ける風変わりな体裁の少女、かごめの姿があった。
「もう、サイテー!」
 口をついて出た言葉は土砂降りの雨に対してか、雨を凌げない針葉樹林にか、はたまた別の誰かへか。

 ――雨に降られるのもずぶ濡れなのも靴が泥だらけなのも犬夜叉が悪いのよ!

 胸中で犬夜叉への雑言と「おすわり!」を連呼しながら、かごめは雨避けの場所を探してなおも走る。
 息が切れ始めた頃、針葉樹の群が途切れて開けた崖の上に出た。
 その崖の縁に近いところに、広葉を枝いっぱいに広げた巨木が孤立してそびえ立っていた。
 この雨で崖崩れでも起こさないかという懸念はあったが、一人法師の広葉樹が自分と重なって見えて、かごめはその木の下に駆け込んだ。
 髪を絞れば滴るほどに濡れそぼっていただけに、一息つけるのはありがたかった。
 時折大きな雨垂れが落ちてくるが、吹きさらしに比べれば大分ましだった。
 滴を払い落しているうちに犬夜叉への熱も次第に冷め、変わりにみじめな気持ちになってくる。
 大きく溜息をついて俯くと、視界の端に何か白いものをとらえた。
 木の根に隠れるように小さくてふわふわしたものがのぞいている。

 ――ウサギ…かな?

 雪山でもないのに白ウサギというのも妙な気がする。
 それでも興味と人恋しさに負けてしゃがみ込み、驚かさないようにすり足で木の裏側に進む。
「おいでー、こわくないよー。」
 崖の縁側の木の裏側が見えた瞬間、かごめは硬直した。
 そのふわふわしたものは想像以上に大きかった。そして見覚えのあるものだった。
 恐る恐るふわふわを追って目線を上げていくと……、

 ――……うん、あたしなんか怖いはずないわよね。

 そこには殺生丸が佇んでいたのだった。

 冷や汗を流しながらかごめの頭の中はこの状況を打破しようとして錯綜していた。
 逃げようと全力疾走したところで相手の一飛びで追いつかれてしまうのは目に見えている。
 戦おうにも弓も矢もうっかり仲間のところに置いてきてしまったし、皆に黙ってきてしまったのでこの危機を知りようがない。
 そして犬夜叉も雨にはばまれてかごめにも殺生丸にも気付かないだろう。
 そこまで思考をめぐらせると暗澹としてトーンダウンしてしまう。
 もうなるようになれと自棄になって殺生丸を見上げ、ふと気がついた。
 とっくの昔にかごめに気がついているはずなのに何も仕掛けてこないことに。
 縮こまっていても始まらないと意を決して訊ねかけてみた。
「あ…あの、あたしを殺さないの?」
 何が悲しくてこんな質問をしなければならないのか。
 その物騒な問いに、殺生丸はかごめに目もくれずに答える。
「何故私が貴様を殺さねばならん。」
 初めて会った時に毒を浴びせてきたのは誰なのかと言い返したいのをぐっとこらえた。
 殺生丸に殺す気がないと言うのならそうなのだろう。虚言を好む性質ではないのは浅い付き合いのかごめにもわかる。
 ひとまず命の危険はないと知って胸をなで下ろした。
 初めは逃げようとも思ったが、もうそんな気にはならなかった。
 ここを離れたくないというより、仲間のもとに帰るのが憚られた。
 雨に濡れたくないというのもあるが、今から戻ると聡い弥勒はかごめの空元気に気がつくだろう。
 仲間たちに心配をかけたくはないし、何よりも犬夜叉に会いたくなかった。
 今会ってしまうと犬夜叉を口汚く罵ってしまいそうで、そんなことはしたくなかった。
「……あたしもここにいていい?」
「この木は誰のものでもない。」
 肯定の返事をもらい、人恋しさも手伝ってか、大胆にも殺生丸の隣に腰をおろす。
 特に何も言ってこないので、腰を落ち着けることにした。


 かごめたちはいつものごとく旅の途中だった。
 昼を過ぎてから急激に天気が崩れ出し、早めに廃寺を寝床に決めて各々体を休めていた時、かごめは犬夜叉の姿がないことに気がついた。
 近くを散策でもしているのだろうと気楽に考えて廃寺を抜け出し、犬夜叉を探して歩いた。
 そしてやや踏み入った森の中に遠目にも目立つ赤い着物姿を見つけた。しかし、声をかけることができなかった。
 桔梗がいたのだ。
 何事か言葉を交わしているのがわかった。
 そして犬夜叉は、桔梗を抱き寄せた。
 桔梗の白い腕がその背に回されるのを見ていられなくて、叫び出したいのを呑みこんでかごめは踵を返した。
 何も考えずに走っているうちに、珊瑚が予測した通り空が泣き出す。
 まるでかごめの心が具現したかのようだった。


 雨はやむ気配をみせず、近くにある山すら煙らせて見える。
 崖下に広がる針葉樹の森を眺めていたが、黙っているとつい犬夜叉のことを考えてしまう。
 隣の相手が話し相手に向いているとは思えないが、今は犬夜叉のことを考えたくなくて、殺生丸に話しかけてみた。
「えっと…殺生丸もやっぱり雨にぬれるのは嫌なの?」
「……。」
 遠くを見たままこちらを見もしないし、相槌すらもない。

 ――無視ですか。 人間の小娘なんてどうでもいいわけね。

 憮然と睥睨しつつも、戦っていなければ見た目通り物静かなんだなと納得する。
 こうしてまじまじと見ると、女でもうらやましくなるような端整な顔立ちをしていると思う。

 ――犬夜叉はもっと素朴というか、言動のせいで粗野な印象すらあるけど……。

 と、つい犬夜叉につなげてしまい気がめいる。
 けれどそれも仕方がない。実際に血のつながった兄弟なのだから。
「ねえ、二股かける男ってどう思う?」
 こうなったらもう開き直って愚痴でもこぼすことにした。
 返事など期待はできないから独り言のようなものだが。
「二股と言うか浮気と言うか、この時代の男ってそれが普通なのかしら。」
 犬夜叉も弥勒も根は誠実な性質なのだと分かっているが、こちらにも悋気や忍耐というものがある。
「解せん。」
 思いがけず会話が続いてかごめは驚いて殺生丸を見上げた。
「女が死んだわけでもあるまいに二女狂う理由など、知りたくもない。」
 自分たちのことを示唆しているのかとどきりとしたが、犬夜叉と殺生丸が異母の兄弟であると思い至る。
 その口ぶりからすると彼の母親は今も存命なのかもしれない。
 そうなると、父やその子の犬夜叉に複雑な念をいだくのも無理もないだろう。
「あの女を憐れんでいるのではない。ただ解せぬというだけだ。」
 かごめが何を考えているのか察して殺生丸は不機嫌そうに眉根を寄せた。
 自分の母親をあの女呼ばわりするのはあんまりだと思うが。
「それじゃあ、殺生丸自身はどう思ったの? やっぱり嫌だった?」
 殺生丸はその質問には答えず、小さく吐息をもらした。
 結構貴重なものを見たのかもしれない。
「人間はかまびすしい。答えねば急き立て、答えれば更に詮索してくる。」
「はいはい、黙りますよ。」
 彼にしては会話に乗ってくれると思ったら、どうやらりんの影響らしい。
 あの人懐っこくてお喋りな少女が殺生丸のことを知ろうと矢継ぎ早に質問を浴びせる姿が目に浮かぶ。
 殺生丸が黙れと言えば一旦は黙るのだろうが、きっと懲りることはないのだろう。
 好きなひとのことを知りたいと思うのは当たり前のことなのだから。

 ――……うん、そうね、やっぱり私は犬夜叉が好き。

 素直なりんを思い出したら、元気を分けてもらった気持ちになった。
 犬夜叉と一緒にいたいと、一緒にいようと決めた日のことを思い起こし、再び胸に深く刻み込む。

 ――だけど、あんまりコソコソ桔梗と密会するなら、実家に帰っちゃおうかな。

 胸中で心にもない冗談をとなえ、「なんてね」とすぐに打ち消した。
 この時代でやらなければならない使命がある。
 そして、実家のある現代に、あの仲間たちはいないのだから。


 いない、と言えば。
 ふと思うことがあってかごめは膝を抱え直した。

 ――そう、いないのよね……。

 この時代、人里を離れれば狐狸の類に化かされて、山奥に分け入れば人食いの鬼が闊歩するような世界なのに。
 ここから500年後の未来では彼らはすっかり姿を消してしまっている。
 弥勒や珊瑚はもちろん人間だし、半妖の犬夜叉は本物の妖怪よりも寿命が短いのかもしれない。
 それでも七宝や隣の殺生丸は正真正銘の妖怪。500年生きたって不思議ではない。
 殺生丸はともかく、七宝ならば現代のかごめにも会いに来そうなものなのに。
 500年後の世界では七宝はもう……

 ――やだ、何考えてんのよ……。

 先程の犬夜叉のことはふっ切ったつもりだが、雨のせいか憂鬱なことばかり考えてしまう。
 かごめは膝にあごを乗せると深く息を吐きだした。
「あんたは生き死にのことで悩んだりしないんでしょーね。死ぬようなたまじゃないし。」
 これも独り言のつもりだった。
「私は不死身ではない。」
「えっ……」
 あまりにも殺生丸に似つかわしくない言葉だった。
 彼の顔を仰ぎ見ようとして目に入ったそれに言葉を奪われた。
 ひらりと揺れる空っぽの振袖。
 殺生丸の左腕は犬夜叉がかごめを守ろうとして斬り落としてしまったのだった。
 しかしその後も言動はハンディなど一切感じさせず、いつしかそれに慣れ、失念してしまっていた。
 彼だって自分と同じく傷つき血を流す、命ある者なのに。
 それに、恐らくは彼が最も尊敬していたであろう父親が死んでしまったこと。
 そのことを何も感じないはずがないのだから。
「……ごめんなさい、私…」
 自責の念にかられてかごめの目に涙が浮かぶ。
「人間は不可解だ。何故事実を言っただけで泣く。」
 心底不思議そうな顔をして殺生丸がかごめを見おろす。
「それ、りんちゃんのこと?」
「……。」
 沈黙の肯定。今と同じようなやりとりがあったらしい。
 「不死身ではない」という答え。殺生丸を一心に慕う少女が聞きそうなこと。

『殺生丸さまは死んじゃったりしないよね?』

 かごめにはその時のりんの気持ちが手に取るようにわかる。
 死のことなど「くだらん」と鼻であしらってほしかった。
 死から最も遠い存在に見えるこの妖怪に、そんなことを言ってほしくなかった。
 寂しくて、不安だったのだ。きっと、今のかごめ以上に。

「あのね殺生丸、りんちゃんは……」
 りんの気持ちを代弁しようとすると、不意に殺生丸が空を睨んだ。
 首根っこを掴まれ、かごめが声を出す間もなく殺生丸は崖から飛び降りた。
 落ちているのではなく飛翔しているのだと気づいた刹那、轟音と閃光がかごめを襲った。
 とっさに瞑った目を恐る恐る開くと、縦に裂かれた黒焦げの木が煙をはいていた。
「え…あ…、か、雷? 落ちた…の?」
 ついさっきまで自分たちがいた所を見下ろして、蒼白になりながらようやく声を絞り出した。
「あ、ありがとう。 あはは…また濡れちゃったわね…。」
 空中では降りしきる雨を防ぐ手だてなどないし、見渡す限り雨を凌げそうなところもなさそうだ。
 これはもう素直に濡れるしかないとかごめは観念したが、殺生丸はそうではないらしい。
 ぐんっとエレベーターが上昇する感覚がして、地上が遠ざかる。
 何事かと慌てるかごめに追い打ちをかけるように辺りが霧に包まれ、次の瞬間には光に包まれた。
 目まぐるしく変わる状況についていけず、突然明るくなったのもあいまって眩暈がする。
 相変わらずの浮遊感。徐々に眩しさに目が慣れてきたが、一瞬自分がどこにいるかわからなかった。
「空の上……?」
 青い空が広がっていた。足元には見渡す限りの白い雲。その隙間から申し訳程度に頭を覗かせる山の頂。
 もちろん雨など降っていない。
 ようやく状況を呑みこんで、かごめは噴き出した。
「これ以上雨宿りに適した場所もないわね!」
 実に殺生丸らしい豪快な雨宿りに、もやもやした気分も吹き飛んでしまった。
 ひとしきり笑った後一呼吸置いて、
「ところで、もう少しましに扱ってくれると嬉しいなー…なんて。」
 まるで犬か猫のようにセーラー服の襟首を掴まれたままで宙ぶらりんだった。
 この状態でも苦しくなければ、雲の上で寒くもないというのも不思議ではあるが。
 かごめの言うことを聞き入れてくれたようで、豊かな毛皮に座らせるようにして包んでくれた。
 そのもこもこときたら、干したての布団も目じゃないほどの心地よさ。
 邪見は空を飛ぶ殺生丸に従う時はこれにしがみついているが、その気持ちもよくわかる。
 しかも濡れ鼠なかごめと対照的にすでに乾いているのが実に妖怪的だった。
 もっとも、この日差しならかごめの服もすぐに乾くだろうが。

「……あの娘の涕涙の意図を知っているのか。」
 殺生丸が静かに問う。
 それはどこか年頃の娘に戸惑うお父さんのようで、これまた似合わないとかごめは忍び笑いをもらした。
「すこしはわかるつもりよ。」
 雨宿りの礼に、人間の小娘の心情をレクチャーすることにした。
 彼が理解して納得するかは、わからないけれど。



2009/11/29

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