ビビはとある場所を目指してラデスの遺跡を急いでいた。
別に誰かと待ち合わせているわけではないが、思い立ったら吉日と行動しなければ気がすまない性分なのだ。
道を阻むモンスターを蹴散らしながら進むうち、以前来た時よりも遭遇する回数が少ないことが気になった。
ほどなくしてその謎はあっけなく氷解した。
なんということはない。目的の場所に先客がいたのだった。
「あ、アロン先生だ!」
墓石の塵を払っていたアロンは、出し抜けに現れたビビを驚きをもって迎えた。
ビビが散歩をするような足取りで目指していたのは、以前アロンに案内された“名もなき王女の墓”だった。
「ビビ一人でここまできたのですか?」
「うん、一人だよ〜」
少しばかり軽率なきらいのあるビビを憂慮するアロンをよそに、いつもの軽い調子で答える。
「アロン先生こそ、一人っきりでよく迷子にならなかったね」
「不思議と、ここへ来るときだけは少しも迷わずにたどり着くんですよ」
ビビは悪気なく失礼ことを言い、アロンは全く意に介さず受け答える。
のんびりとした方向に打てば響く二人は、くすくすと笑いながら軽口をたたきあう。
「きっと王女さまのご加護だね!」
「そうかもしれません」
あながち冗談とも言い切れないかもしれない。アロンは心の中でつぶやいた。
そうやって言葉を交わしたのち、ビビは両親と兄の墓前に供えたものと同じ花を献花した。
二人はそろって黙祷をささげる。
人気はなく、今はモンスターの気配も遠のいて、鳥の声しか届かない静寂に包まれていた。
黙祷を終えて目に入った、名もなき王女という文字が裏寂しい。
「王女さまの名前、まだわからないの?」
ビビの問いにアロンは申し訳なさそうに頷いた。
「遺骨はすべて納めることができたのですが……」
王女の名前だけは、結局わからずじまいだった。
四十年前に王女の名を知ることができた人間は本当にごく一部に限られ、そのほとんどが当時すでに高齢だった。
十代や二十代の若造だった頃ならいざ知らず、今のアロンが彼らに問い質せば答えるかもしれない。
しかしその相手が墓の中となっては手の打ちようがない。
獣人たちに聞けば覚えている者もいるかもしれない。
しかしあの戦争については未だ繊細な話題で、厚顔に尋ねて回るのはためらわれた。
八方ふさがりだと言ってアロンは肩を落として苦笑いを浮かべた。
ビビにはその笑い顔がつらかった。
今ある獣人と人間の平和のために誰よりも長く走り続けた人。
だから、誰よりも報われていいはずの人。
その人の顔に曇りがあってほしくない。
きっと兄もそう思うに違いないと、根拠はないがビビは確信して思う。
「ねえ、王女さまってどんなひとだったの? 美人さんだった?」
兄よりもずっとくるくると口の回るビビはさっと話題を変えた。
「ええ、とても美しい方でしたよ。 そして心の強い、高潔なひとでした」
死の瀬戸際にあってさえ気高さを失わない凛とした立ち姿。
最後に見た王女のその姿を、アロンは生涯忘れることはないだろう。
そこでふと気が付いた。
今更だが、ひょっとすると自分は彼女に恋をしていたのかもしれない。
一人で赤くなって咳払いをするアロンにビビは目を丸くした。
「それに、バーバラ殿も私にとって忘れえぬ獣人の一人なんですよ」
唐突に母の名前が出て不思議に思ったが、母とアロンに面識があると知ってビビの心が躍る。
「へえ、母さんに会ったことがあるんだ!」
アロンに罰を科して去っていった、誇り高い獣人の戦士。
「自分にも他人にも厳しくて、それでいて慈悲深いひと、というのが私の印象ですね」
「うん、わかる。怒るとすっごく恐いけど、いつもは優しいお母さんだったって覚えてる」
同じ想いを共有しているのが嬉しくて、二人は笑みを交わした。
それにしても、このもどかしさは何だろうとビビは内心首をかしげた。
母の話題が出たときに覚えたそれ。
相手にプレゼントするはずだったものを失くしてしまったような、焦燥感に似た感覚。
そうだとビビは確信する。
自分は知っているのだ。アロンが喜ぶような何かを。
「ところで、ビビはどうしてここに?」
アロンに尋ねられて考えるのを保留することにした。
アロンの疑問も尤もで、ここは年に数度人が来るか来ないかという辺鄙な場所。
顔見知りの二人が出会うことは奇跡に近いのだから。
「わたしね、ここに来る前にみんなのお墓の手入れをしていたんだ。
母さんのお墓を掃除し終わって、そうしたらどうしてもここに来なきゃって思ったの」
本当になんとなく足を向けたのだった。
母に呼ばれているような気がして。
そんなあやふやな理由を、アロンはビビらしいと笑ってくれた。
「きっと王女もバーバラ殿も、ビビが来てくれて一緒に喜んでいますよ」
「母さんが……王女さまと?」
その瞬間、おぼろげな点の記憶が線で結ばれ、幼いころの思い出がよみがえった。
まだ母と兄が村にいた頃、母は幼いビビを膝に乗せて昔話をしてくれた。
昔仕えていたひとがいると。
「アロン先生! あのあの、あのねっ、わた、わたたたしっ……」
「落ち着きなさいビビ、どうかしましたか?」
急に慌てふためくビビをアロンがなだめる。
ビビは何度か深呼吸すると、一気にまくし立てた。
「わたし、知ってるの! 王女さまの名前を知ってる!」
今度はアロンが驚愕する番だった。
ビビは十年以上前、母が一度だけ話してくれた記憶を絞り出そうと頭をひねる。
「昔ね、母さんが話してくれたの! ええと……うーんと……!」
母はそのひとのことを何と呼んでいただろうか。
そもそもどうしてもっと早く思い出さなかったのか、軽い自分の頭に叱責をくれた。
母はその時ビビのお下げを編んでくれていた。
“昔仕えていた人”はビビと同じような明るい髪の色をしていたと懐かしんでいた。
そして母の懐かしい面影と共にその声がよみがえった。
「リーザさま!」
その名を聞いてアロンは思い出す。
幼い自分を板挟みに言い合う王女と、若き日のバーバラ。
『人間は敵ですよ! リーザ様!』
「リーザ…王女……」
つぶやくアロンの頬の濡れる。
それに気が付いて拭うも、後から後から涙があふれて止まらない。
「おかしいな…あの時にもう一生分泣いてしまったと思っていたのに……」
これも巡り合せだろうか。
四十年以上探し続けた名前を知ることができた。
バーバラに科せられた罰を、その娘のビビアンに許された。
「それはきっと嬉し涙だから、いくら泣いちゃってもいいんだと思うよ」
ビビももらい泣きで瞳を潤ませながら言う。
アロンはビビの手を取って握りしめた。
「ありがとうビビ。 これでようやく墓標に名前を刻める」
言葉につかえながら、アロンは何度も礼を述べた。
ぽろぽろと零れ落ちる涙の雫が、ビースト・オーブに負けないくらい綺麗だとビビは思った。
アロンの長い旅が、本当の意味で終わろうとしていた。
2011/06/12