指輪物語

金色の光


 私の好きな色は二つある。黄金色と、それよりも少しだけ淡い金色。
 一つは最愛の、もう一つは最上の、私の大切な金色の光。
 これは私が初めて淡い金色の光と出会った日の、秘密の物語。


 まだ星々だけが地上を照らしていた頃のこと。
 あの日私は気まぐれにメネグロスを出て、初めて広大なドリアスの森を一人歩きしていた。
 普段メネグロスに住んでいるからと言って、今までずっと地下宮殿に籠っていたわけではない。
 家族に誘われて森に出ることはあるし、父と共にシンゴル王の散策に付き従ったこともある。
 ただ、自発的に、それも従者すらつけずに歩き回るのは初めてのことだったのだ。
 歩くうちに多くの者が使う散策のコースを外れ、森はだんだん密度を増していった。
 時折聞こえてくる鳥たちの歌声、虫の音。まるで驚かすように茂みから飛び出して跳ねていく兎。遠くからこちらを窺って足を止める鹿の親子。
 そのどれも私の心を動かすことはなかった。
 永遠の命を持つが故の性か、エルフはいずれ生に倦む。
 程度の差こそあれ、長く生きればどんなエルフでも抱くだろうが、私の場合はそれを覚えるのが殊更早かったように思う。そして、重症だった。
 シンゴル王の縁者として何一つ不自由なく暮らしていたというのにね。
 けれど私は自分が生に倦んでいるなどとは思いたくなかったし、周りにもそれを覚られたくなかった。
 こんなにも気分が沈むのは星がよく見えないせいだ。
 空を覆い隠す豊かな枝葉を見上げて、そう思い込もうとしていた。
 大きく息を吐き出して、ろくに時間も経っていないがもう帰ってしまおうと踵を返しかけた時だった。
 思わず体がのけ反るような一陣の風が吹き荒んだのは。
 通り過ぎると言うような生易しいものでなく、大きな手の平ではたかれたような一瞬の大風。
 それと同時に短い悲鳴が頭の上から聞こえた。
 風で乱れた髪を撫で付ける暇もなく、勢いよく葉がこすれ合う音が近づいてくる。
 何かが……いや、誰かが落ちてくると悟って、私は無意識に腕を差し伸べていた。


 降ってきたのは金色の光だった。


 思いの外小さかったそれをどうにか胸に抱き留めて、私は尻餅をついた。
 あまりに突然のことに、ぶつけた尻が痛むのも気にならなかった。
 枝から千切れた葉が遅れて舞い落ちてくるのを茫然と見上げていて、膝の上にうずくまっていたそれが身動ぎしたのでようやく我に返った。
 正気に返った矢先に、私は金色の輝きに目を奪われていた。
 空から降ってきたのはまだ幼い子供だった。
 その子がゆるゆると首をもたげると、少しだけ白みを帯びた金髪がさらりと揺れた。
 ようやく大丈夫かと声をかけたものの、金色の髪への珍しさと間近で見るその美しさから思わず声が上ずった。
 子供はまだ状況を把握しきれないような曖昧な瞳で私を見上げてきた。
 長い金髪と後の空の色のような奥深い蒼の瞳。けれども不思議と緑の印象が脳裏に宿ったのを覚えている。
「……かぜ……」
 子供は呟いて何度か目を瞬かせた。放心してはいるがどこも怪我はないようで、私は胸を撫で下ろした。
 そして状況を理解してか、出し抜けに眉をぎゅっとひそめ、口惜しそうに唇を尖らせた。
「風がふいて木のてっぺんからおっこちた……。こんなこと、はじめてだ」
 子供が立ち上がって“木のてっぺん”を見上げたので、私も釣られて目をやった。
 ああ、さっきの風で……と言いかけて思わず言葉が途切れた。
 見上げた先は枝が幾重にも折り重なって視界一面に葉が広がり、目の前の幹は大の大人が何人も手をつないで輪になれそうだった。
 そんな大樹の天辺なんて、少しも見えなかったのだから。

 私がその樹がどのぐらい高いのか想像を巡らせていると、子供が私の顔をじっと覗き込んでいるのに気が付いた。
 この際なので私もその子を改めて眺めてみると、幼い顔つきの中に優美さを帯びた、非常に端整な顔立ちであることに驚いた。
 髪の色から見るに、ヴァンヤールの血が混じっているのかもしれない。
 軽い外套とサンダル履きの素足はまさに森遊びの真っ最中といった風情で、口調からすると男の子だろうか。
 そんなことをつらつらと考えていると、
「知らないエルフだ。メネグロスに住んでいるのか?」
 存外にくだけた口調で尋ねられた。
 ドリアスにはメネグロスに住まず、森の中で暮らす者も少なからずいると聞いていた。
 彼もその一人なようで、私のことが珍しいらしい。私にとって彼がそうであるようにね。
 私が肯定すると、彼は好奇心に瞳を輝かせて新しい質問を投げかけてくる。
「メネグロスのやつがこんなところで何をしていたんだ?」
 その時の私には難しい質問だった。特別何かをしようと思っていたわけではなかったから。
 ただ空いた時間ができたので気まぐれに森に出て、たまたま通りかかったに過ぎない。
 強いて言えば、「星でも眺めようと思ったけれど、もう帰ろうと思っていたところ」だ。そう取り繕った。
「もう見あきてしまったの?」
 見飽きるも何も、ここは星がよく見えないからね。
 私が言うや否や、彼は先ほどとは比べものにならないぐらい露骨に顔を顰め、機嫌が急降下したのを隠そうともせずに睨みつけてきた。
 シンゴル王ほどではないにしろ私は背が高いほうで、その頃の彼はまだほんの子供の時分。
 そんな体格差のある相手を前に臆せず対峙するのだから大した度胸だと思う。まあ、身長差は今でも割とあるけれど。
 そして狼狽える私を尻目に、彼は一言だけ言い放った。
「ついてこい」
 聞き返す間もなく大樹に取り付いてスルスルと器用に登りはじめた。
 その慣れた手つきはまるで栗鼠のようで、あっという間に枝葉に隠れて見えなくなってしまった。
 見た目も風変りなら、性格も変わり者らしい。
 一人残された私は戸惑った。生まれてこの方、木登りなどしたことがなかったのだからね。
 けれどもこのまま彼と別れてしまうのも消化不良で後味が悪い。
 仕方なく私はすっかり成人してしまってから、初めての木登りに挑戦することになったのだ。

 彼が身軽に登っていったから軽く見ていたけれど、意外と大変なものだった。
 手をかける位置を間違うと体が持ち上がらないし、足を置く場所が悪いと踏ん張りがきかない。
 ひたすら幹の出っ張りや枝に目を凝らしながら登っていった。
 しばらくして体を持ち上げると、目の前の枝にサンダル履きの足が乗っていた。
 夢中で登るうちに、ようやく天辺近くまで来ていたらしい。
 彼は器用に細い枝の上に仁王立ちして私の到着を待っていた。
「遅いぞ」
 私はよく温厚な性格をしていると言われるし、自分でもそう思う。けれども開口一番にそう言われて、さすがにむっとしたよ。
 仕方がないだろう、私は初めてだったのだから。
 大人気ないが言い返そうとしたのだけれど、
「ほら、見ろ!」
 私の言葉を遮って、彼は何かを披露するように両の腕を広げた。
 そしてそれに気が付いて私は目を見張った。


 遮るものが何もない視界はどこまでも世界が開けていた。
 見渡す限り延々と続く森の木々の群れ。その隙間に川の帯が白く光っている。
 何よりも、見上げた先の吸い込まれそうなほど広がる空間に、私の目は釘づけになった。
 優しげな風で金色の髪が揺れるその向こうに、曇り気のない星空が広がっていたのだ。


「この木だけ、おまえみたいに他のよりもノッポなんだ」
 感歎の息を漏らす私に彼は得意げな顔をして言う。
「星が見えないなんて言わせないからな!」
 勿論私はその言葉に同意して、先の失言を撤回した。
 すると彼は先ほどまでの不機嫌さが嘘のように消え去った、心底楽しそうな笑みを私に向けてくれた。
 こうして思い出してみると、彼の機嫌の波が激しい所は今でも同じだな。機嫌が良い時の笑みがとても素敵なところもね。
 吹き抜ける風が心地よくて、そのまましばらく零れ落ちてきそうな星空に見入っていた。
 けれど、ふと申し訳なさがこみ上げてきて、彼に聞いた。
 ここは君のお気に入りの場所なのだろう、私に教えてしまっていいのかい、と。
「おきにいりだから、わるく言われたくないんだ」
 特に秘密にしているわけではないが、彼と彼の友人ぐらいしか知る者のない穴場らしい。なるほど、これは無邪気に木に登ってみなければわからない。
 ああ、そして彼が何の気なしに言った言葉。彼にとっては当たり前なその言葉を、私は忘れることがないだろう。


「それに、だれかといっしょに見たほうが楽しいじゃないか」


 私は今でも、彼ほど生を謳歌するエルフを他に知らない。
 そんなに簡単なことだったのに、私は目が覚めたような気分だった。
 暗澹とした心の理由。いつの間にかそれが消え去っていた理由。
 私に足りなかったもの。手に入れようとしなかったもの。
 私はその瞬間にそれらを知り、得て、自分よりも年下の彼に教えられた。
 それが何とも心地よかった。

「あ、笑った。顔の筋肉が凍ってるわけじゃなかったんだ。最近寒かったし」
 彼がまじめな顔をして不可思議なことを言うものだから、私は思わず声を立てて笑ってしまったよ。
 腹を使って笑うなんて本当に久しぶりだった。
 私に釣られて彼も笑った。
 優美な見た目とは裏腹に、他人を巻き込むように豪快で快活な、今でも変わらない笑い方で。

 一しきり笑った後で、まだ彼の名前も知らないことにやっと気が付いて、ようやく自己紹介を交わした。
 そう、その彼の名前がスランドゥイルだ。
「ケレ……長いからケレンでいい?」
 ひどいだろう?“ケレボルン”なんて彼の名前からしたらいくらか短いのに。
 だから私は意趣返しに、彼よりももっと短くして“イル”と呼んでやることにした。
 スランドゥイルがもう少し大きくなるまでの、ごく短い間ではあったけれど、その愛称で呼び合っていた。
 最近では……、色々と事情もあるから仕方がないのかもしれない。
 それでも、今彼に「イル」と呼びかけたら、「子供扱いするな」とまた臍を曲げるのだろうな。
 名前を教え合って、私と彼は手を握り合った。
「いいわすれてた。さっきは助けてくれてありがとう、ケレン!」
 その時、彼とはとても長い付き合いになるのではないかと漠然と思ったけれど、今でははっきりとそう感じる。
 スランドゥイルは私の最上の友人なのだから。
 けれど、彼が私をどう思っているかを聞いたら、きっと天邪鬼な答えが返ってくるだろうね。

 後から知ったのだけれど、彼の父オロフェアと私の父も友人同士だった。
 だから私たちは運命的に早く出会っただけで、遅かれ早かれいつかは巡り合っていたはずだ。
 彼と出会って幾ばくも経たないうちに月が昇り、太陽が輝いた。そして私は最愛の光と出会った。
 スランドゥイルとガラドリエル、月と太陽。なかなか含蓄めいていると思う。
 スランドゥイルと出会った瞬間が、私にとって夜明けの始まりだったのだ。
 そして、今に至る。
 彼と彼女がいる限り、私の生は輝きに満ちているだろう。


 どうしてこの話が秘密なのかと?
「あのスランドゥイルが木から転げ落ちた」
 そんなことを誰かに話したと本人に知られたら、彼に何を言われるかわからないからね。
 だから、君に話したということは秘密にしていておくれ。



2011/12/04
pixivに投稿したのを少しだけ手直ししたものです。
バラール島あたりで幼いケレブリアンに語り聞かせたのかもしれないし、裂け谷でその婿殿にかもしれない。
ロリアンに遊びに来た孫たちか、ドリアスにいた頃ガラドリエルに聞かせたのかもしれない。
ひょっとしたら、指輪の旅で立ち寄ったレゴラスにこっそり話したのかも。

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