大神

いつか、


“クトネシリカが青鈍色に輝く時 氷壁は砕かれ 天への道は拓かれん”



 この伝説は救世の予言ではなかったのか。
 永久凍湖が砕かれた。それだけでも異常事態だというのに、今起こっていることをどう説明すればいい。
「魔神たちが封じられてカムイに温もりが戻ったと言うのに、再びこのような凶変に見舞われるとは!」
 吃驚と憤りをあらわにしてサマイクルがはき捨てた。
 災厄の源たるヤマト。まさかあの鉄の塊が宙に浮き上がるなどとは夢にも思わぬことだった。
 一体これから何が起ころうとしているのだろうか。
「アマテラス」
 オキクルミの声にサマイクルは我に返った。いつの間にか二人の間に、あの白い狼が佇んでいた。
 その白い狼にオキクルミが語りかける。
「短い間だったがお前と行動を共にして、お前が何者なのか俺にも察しが付いた。
 あの箱舟が天への道だと言うのならば、お前はあの箱舟に乗るべきだ。
 この先はきっと俺たちの立ち入る事が許されない神々の領域に違いない。 …そうだろう、アマテラス?」

 白い狼は相変わらずのとぼけた顔で、わふぅと息をもらした。
 そしてオキクルミを見上げ、サマイクルにも一瞥をくれてから駆け出す。
 怯えてトゥスクルにしがみつくピリカたちの前を通り過ぎ、
「ワンッ!」
 虹の橋を渡る前に振り返り、力強く吠えた。まるで自分にまかせておけと言うかのように。
 その黒豆のような目はカムイを、それどころか世界のすべてをみそなわすような不思議な暖かさと安心感があった。
「アマテラス…それがあの狼の名なのか?」
 虹の橋を駆ける白い姿を見上げながらオキクルミにたずねる。
 確かイッスンがアマ公と呼んでいた。
「そうだ。俺もアマテラスについて知っていることは少ないが…」
 オキクルミの話はにわかには信じがたいものがあったが、彼が語ったそれは確かに“イザナギ伝説”だった。
 こう言ってはなんだが、オキクルミが別の大陸の神話を詳細に語れるとは思えない。
 時を越えた先で月を呼んだ白野威の生まれ変わり。それがあの白い狼、アマテラス。


 ――アマテラス…アマ……天……


「虹が消えるぞ!」
 トゥスクルの声に思考がかき消され、弾かれたように顔を上げる。
 ぽっかりと開いた入り口につながっていた橋の輪郭が薄れ、とけるように消えてしまった。
 何か小さなものが湖に落ちたように見えたが気のせいだろう。
「あの男はなんだ…?」
 オキクルミの訝しげな声にならって箱舟を見上げる。
 アマテラスの前足をとって珍妙な踊りを披露する人の姿が見受けられた。
 鮮やかな色調の着物に風変わりな頭巾。

 ――ウシワカ!?

 少年時代に出会った不思議な男。
 いつしか会うこともなくなり、彼の存在が夢か幻だったのではないかと、ずいぶんと悩んだこともあった。
 最後に見てから十年は経ったというのに、忘れえぬその姿はあの日と変わらぬものだった。

天照大神

 不意にこの神の名が頭をよぎった。
 天から地上をみそなわす太陽の神。
 もしあのアマテラスがそうだというのなら、ウシワカは一体…。
 太陽と一緒に天の箱舟に乗る彼は何者なのだろう。
 人ではなく、妖怪でもない。神とも天神族とも違う。
 いつだったか、自分を“天道の探求者”と称したことがあった。

 ―――あなたは一体どこから……

 箱舟の内部へ走り出す直前、ウシワカは一瞬だけこちらへ振り向いた。
 その刹那のの時間、確かに二人の目は合い、ウシワカは微笑んでいた。
 “ザッツライト! ユーの考えている通りさ。”
 いつもの軽い調子でそんなことを言われた気がした。


 ウシワカが箱舟の中へ走り去った後もアマテラスはその場にとどまっていた。
 遥か下の湖面を一心に見つめている。
 よほど大切なものを落としてしまったのだろう。虹が消えた瞬間に見たのは見間違いではなかったのかも知れない。
 無常にもアマテラスのいる床がせり上がり、入り口が閉じていく。
 それにもめげずに、徐々に勾配が上がっていく端のほうにしがみつく姿が見え隠れする。

 入り口が閉まりきる直前、
 アマテラスの白い体に美しい紅模様が走っているのを、サマイクルの目ははっきりと捉えていた。


* * *


 天道を通るのは太陽だけじゃない。


 少年時代のサマイクルと会い、話し聞かせたいくつもの“御伽話”。
 あれはみな現実に起き、実際にウシワカの目で目で見てきたことだった。
 ナカツクニで起きた事、ナカツクニよりもっと高いところで起きたこと。
 様々なことをサマイクルに話した。
 勉強家で博識な彼のことだから、「ひょっとしたら…」と思ったこともあったかもしれない。
 サマイクルはいつも熱心に聴いてくれた。

 “これは救世ではない 贖罪なのだ”と、それを忘れないように。

 忌まわしい過去でも、リセットはできないから。
 けれど太陽を助ける小さな妖精には、これ以上負わせるわけにはいかないから。
 自分への戒めのため、そんな身勝手な理由で彼に託した。

 伝道される太陽の軌跡は、天道太子のコロポックルに。
 沈黙の月の記憶は、サマイクルに。

 タブーだと分かっていながら、話さずにはおれなかった。
 ――……そんな理由をつけなくても、ユーと話すのはとても楽しかった。

 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。決戦を前に気を引き締める。
 今日この日のためにどれだけの時を待っただろうか。
 天へのチケット。決して無駄にするわけにはいかない。

 暗く無機質な通路を駆け抜ける。たどり着いたのは開けた空間。
 闇の中に薄っすらと球体の輪郭が見えた。
 闇の君主、常闇ノ皇。

 その姿はまるで、太陽のない月のようだった。


* * *


 ウシワカが制御盤を操作すると、暗く閉ざされていたドーム一面が景色を映し出すスクリーンに切り替わった。
 雄大なカムイをを一望できる絶景。特にエゾフジの二つの火口から上がる力強い噴煙が目を引いた。
 かつてのように、極寒のカムイの地にぬくもりを分けてくれることだろう。
 ふと目を凝らすと、画面の下のほうに小さく人影が映っていた。
 二人のオイナ族の男がヤマトを見上げている。

 ――ハヤブサ君……。

 彼の姿を拡大しようとして、やめた。
 未練がましい。
 自分も彼もやることが山積みなのだ。ここで現を抜かしている場合ではない。
 互いに、これからもっと忙しくなるだろう。
 けれど彼ならば一族をきっと良いほうへと導いていくはずだ。
 自分も負けてはいられない。けれど、不安や焦りはこれっぽっちも感じなかった。
「何たってアマテラス君、ユーが一緒なんだからね。」
 傍らのアマテラスにウインクしてみせた。
「わんっ」
 いつもと変わらぬ調子の鳴き声が心強い。
 アマテラスが隣にいてくれるだけで、こんなにも心穏やかになれる。


 ―――ユーもそうだろう、……サマイクル君。


* * *


「行ってしまったな。」
 オキクルミの呟きにサマイクルはうなずいた。
「本来あるべき場所へと帰るのだろう。」
 アマテラスも……ウシワカも。
 帆を広げ、光の粒子をたなびかせて空を翔るヤマトを、二人肩を並べて見えなくなるまで見送った。
 黙りこくるオキクルミを不審に思って彼の方へ目をやると、
「これからが大変だな。……あまりに多くの仲間が死にすぎた。」
 サマイクルや村の皆への申し訳なさをにじませて、俯いたオキクルミが搾り出すように言った。
「柄にもなく悲観的ではないか。」
「茶化すな!俺は……」
 暗く塞ぎ込むオキクルミなど彼らしくない。
 それにサマイクルは茶化しているつもりも、村の復興を楽観視しているわけでもない。
 むしろこれからは今までにはなかった問題も出てくるだろう。
「確かに、我らの失ったものは余りにも多い…」
 オキクルミにみなまで言わせず、サマイクルは最上の友に問いかけた。

「だが今度こそ、我と共に村を守ってくれるのだろう、オキクルミ?」

 彼と共にあれば、どんな困難でも耐えることができる。
 その想いは、オキクルミも同じだった。

「ああ、もちろんだ。」

 オキクルミは力強く頷いた。
 サマイクルは誰よりもオキクルミの帰還を、オキクルミ自身を信じて村を守り続けた。
 今度はオキクルミがサマイクルの信頼に応える番なのだから。


 もう少しで、ウシワカの語った“お伽話”の一つ一つが繋がりそうな気がする。
 けれど、今は考えるのをやめることにした。
 今は今やらねばならないことが滞積しているのだから。

 いつかウシワカが下界を見下ろして、再びナカツクニを訪れるとき。
 いつかサマイクルがお伽話の由来を知り、天空を見上げたとき。

 互いの故郷を心の底から誇れるように。



 そしてまたいつか、月の見える空の下で……。



2008/07/26

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