ラヨチ湖に沈む箱舟ヤマト。
オイナ族の聖地にして、過去の原罪。
そして、いつか天へと昇るための架け橋…。
今のところ闇の君主に目立った動きはなく、完全に沈黙をまもっている。
その静けさが逆に不気味だとウシワカは思う。
それでも時が満ちるまではまだ時間があり、自分に出来ることといえば、こうして異常がないか見回ることだけ。
ヤマトとクトネシリカを高みから一瞥をくれ、そろそろ十六夜の祠に戻ろうかと腰を上げると、
「誰だ!」
下のほうから誰何の声がかかった。
見下ろすと、オイナ族の少年がウシワカのいる岸壁を見上げている。
不覚も不覚。子供に見つかってしまうとは、オイナ族の鼻を侮りすぎた。
「おまえ、何者だ! そこで何をしている!」
「…おや?」
少年の被る面に見覚えがある。
いつだったか、遭難しているところを助けた、あの時の子供のものだ。
そう、確かサマイクルと名乗った。
ウシワカを翼ある者と見違えた、オイナ族の子供。
あれから数年。背もいくらか伸び、おかっぱ頭だった髪も肩のあたりまで伸ばされて、綺麗に切り揃えられている。
「ユーこそ、何をしているのかな? 門の向こうにはみだりに立ち入ってはいけないルールのはずだ。」
本来ならさっさと立ち去るべきなのだが、懐かしさと意趣返しもこめて問いかけた。
やはりやましいことがあるのか、言葉に詰まってたじろいでいる。
この程度の誘導に乗ってしまう所はまだまだ子供だと思う。
岸壁から飛び降りると仰天して動揺したが、舞うように目の前に降り立ったウシワカに目を丸くしていた。
「さて、質問するよイーグルボーイ」
「い…いーぐる…?」
聞きなれない名詞で呼ばれ、サマイクルは目の前の不審者をねめつけた。
「“鷹の少年”って意味さ。」
「この面は隼だ!」
高下駄を履いた、自分よりもはるかに長身の相手に反論してみせる気丈さに感心する。
「オーケー、ハヤブサ君。何者かと聞いたね。何者だと思う、サマイクル君?」
「我の名をどうして…」
半身に構え、不審の眼差しに畏怖の念が生じる。
それをなだめるようにウシワカは言った。
「そちらがこちらを知らなくとも、ミーがユーのことを少しだけ知っているだけさ。」
そういえばこうして会話を交わすのは初めてだと気付く。
そしてウシワカはどこか挑むように細い目をにっと細めた。
「さあ、ユーはミーを何と見る?」
かつて鳥と間違えた少年は、何と答えるだろう?
そんな期待を込めて、返答を待った。
サマイクルは目の前の人物をじっと見詰めた。
どこかで会ったことがある気もするが、おそらく気のせいだろう。
こんなに派手な目立つ人なんて、一度見たら忘れるはずがないのだから。
「……妖怪の臭いはしない。でも、人間の匂いでもない。ましてや、我らオイナ族とも違う……。」
そこまで言い切って、腕を組んで考え込む。
さすがは半人半獣。子供とはいえ大したものだと内心絶賛する。
だからこそ、一番遭遇したくない一族でもあるのだが。
「もしかして、天神族だったりして。」
細い目をめいっぱい開いて驚いた。
こうも早く核心に近づかれたのは初めてだった。
「どうしてそう思うんだい?」
内心の動揺を気取られぬよう、努めて冷静に問うた。
サマイクルも自信なさげに質問に答える。
「他に、人の姿をした一族を知らない。ナカツクニには海底に住む一族がいると聞くが、この常冬のカムイに来る理由がない。」
それに、と言葉を切って、ウシワカの顔を見上げる。
「箱舟ヤマトを見て、とても悲しそうな顔をしていた。」
初めからサマイクルに敵愾心がなかったのはそのせいだろうか。
ということは、それなりに長い間見られていたことになる。
自分の迂闊さを殴りたい気分だった。
「博識だねぇ。 でもハズレだよ。」
「…言ってみただけだ。」
平静を装って顔をそらしたのだろうが、羽根の耳飾をつけた耳が真っ赤に染まっていた。
サマイクルの腕に抱えるものに、今更ながら気付いた。
古めかしい一冊の本。
「その本は…カムイの伝承かい?」
こくりと頷いて耳飾をゆらした。
「ヤマトもクトネシリカも伝説の一部だから、それを眺めながら読むのが好きなんだ。」
そのために忍び足で来たらしい。
サマイクルに気付かなかった理由はそのせいだと思うことにした。
2007/02/10