近頃は臥せっている時間が多く、目が覚める時間もまばらだった。
ケムシリ爺が目を覚ましたのは夜更けのこと。外は吹雪きで大荒れのようだった。
「サマイクル、そこにいるッペ?」
床に伏した重い体を起こし、戸口に向かって呼びかける。すると、案の定すぐに返事があった。
「お呼びですか長老。」
戸が細く開いてサマイクルが顔を出し、風が入らないように素早く体を滑り込ませた。
ケムシリ爺を狙う妖怪は吹雪に乗じて襲ってくることが多い。
そのため、いつからかサマイクルが家の前で見張るようになっていた。
「もう夜も深いッペ。ワシのことは心配いらんからお前も休むといいっッペ。」
「我のことなら心配めさるな。それより長老こそお体に障ります。」
いつ妖怪が襲ってくるか分からないと番に戻ろうとするサマイクルを、ケムシリ爺が呼び止めた。
「何を言うッペ。今にも倒れそうな悩ましい顔をしているッペ。」
サマイクルは思わず自分の顔に手を触れた。
その指先は仮面をなぞり、素顔に届くことはない。
自分の孫同様に生まれた頃から見守り続けた長老は、サマイクルの心情を察して言葉をかける。
「大方、オキクルミがおればとでも考えとるのだろうが、今ここにいない大馬鹿者のことは忘れることだッペ。」
今お前が倒れたら誰が村を守るのかと諭した。
村を守る。言葉にするのは簡単だが、行うにはとても重い言葉。
「…しかし我は…我一人では何もできぬのです。長老の求心力なくしては…。」
長となったサマイクルが心の内を吐露できるのは、今ではこの長老だけだった。
「オキクルミもワリウネクルも戻ってはこず、ピリカも未だ見つからぬまま…。」
悔しそうに唇を噛んでおもてを伏せる。この表情もきっと見透かされているのだろう。
自分は村長として村を守れているのか、不安をかき立てられる。押しつぶされそうになる。
「こうして長老をお守りするほか、俺には何も…。」
――宝剣を狙う妖怪どもを一身に引き受けるオキクルミの方がよほど…
「そう自分を卑下するもんじゃないッペ。」
穏やかな声音に沈鬱な思考がさえぎられる。
「オキクルミのやつはこう思ってるに違いないッペ。“皆のそばで村を守るサマイクルの方が”…とな。」
なにせ向こうは妖怪を切って捨てる…やつの得意なことをしているだけだからと呵々と笑う。
それにつられてサマイクルの表情が和らいだ。
元村長の言葉は、その苦労を知るがゆえに誰の言葉よりも胸に染み渡る。
同じ頃、カムイの端のほうで盛大なくしゃみが聞こえたとか聞こえないとか。
少し余裕ができたらしいサマイクルを、ケムシリ爺は自分の孫を見るような心持ちで見遣る。
寒いのが苦手で、家の中で本を読んでばかりいた子供が、今では一族で随一の戦士。
吹雪の中で夜通しの不寝番をこなすようになるとは、昔の彼からは想像もつかなかった。
オキクルミに引っ張りまわされた成果であるのかもしれない。
大きな雪玉を転がす二人をよく見かけたものだった。
逆に、ろくに文字も覚えようとしなかったオキクルミに字の読み書きを叩き込んだのはサマイクルだった。
正反対ゆえに似たもの同士。二人が共にあれば、どんな困難でも打ち払えようものを…。
―――いかんいかん。ワシまでこうではサマイクルに示しがつかないッペ。
「こうして話していると昔を思い出すッペ。どれ、一つ昔話でも披露するッペ。」
「そんな唐突な…。」
いささか強引な切り出し方ではあったが、それでもサマイクルは姿勢を正した。
幼いころ抱いた物語への興味は未だ薄れることはない。
むしろ今は子供の頃には理解できなかった難しい書を読み解くのを楽しみとしている。
なにより、長老なりの気遣いと受け取ったからだった。
「ここは景気良く双魔神封印の話にするッペ。」
オイナ族英雄譚を語り始める。
そらんじられるほど聞いた話でも、サマイクルは静かに耳を傾けていた。
その実直な様には悪いと思いつつ、ケムシリ爺は言の葉に霊力をこめた。
聴覚からゆっくりと染み渡る霊力は眠りの淵へ誘い、そっとサマイクルの背を押す。
物語も佳境を迎えたあたりで、サマイクルの静かな寝息が聞こえてきた。
「…やれやれ、座ったまま寝るとは器用なやつだッペ。」
老いさらばえて力衰えたといえ、まだこれくらいのことはできる。疲れの溜まった相手にならなおさらのこと。
今はいつもより体調がよく、何かあったとしても自分で対処できるだろう。
最も、“何かあった”場合はケムシリ爺の霊力をはねのけてでも彼は飛び起きるのだろうけど。
サマイクルをそっと横たわらせ、寝苦しくないように面を外してやる。
素顔を見る機会はそう多くないが、やはり心労からか少しやつれたように思う。
どうか今くらいはこの子に休息を。
長老は精霊たちに祈った。
寝顔を眺めていて、ふと思い出したことがあった。
「そういえばお前は、ワシの昔語りの最中で居眠り一つしたことがなかったッペ。」
子供たちが集められて長老から語り聞かされるお話。
そんなことより遊びに行きたいという面持ちな子供たちの中、実の孫よりも熱心に聞き入っていたのがサマイクルだった。
あまりに真剣なものだから、その隣で舟を漕ぐオキクルミにゲンコツを見舞うのを忘れてしまったほどだ。
そう、自分の孫とそう歳は変わらない。
その若さで重責を負わせ、村に縛り付けてしまうのを申し訳なくも思う。
しかし南からの邪悪な影、双魔神の復活、この異常な猛吹雪。
それが玄冬の蝕のおこる年に起こってしまった。
偶然などではなく、近々確実に何かが起ころうとしている。
そのために村をまとめ、それでいて戦いの陣頭に立てる長が必要だった。自分にはもう無理なのだ。
「気を張りすぎて体を壊しでもしたら、それこそ魔神どもの思う壺だッペ。」
語り聞かせるように言うと、大きな暖炉に薪をつぎたした。
暖炉の火が小さくなったころ、閉じられていたサマイクルの目蓋が揺れた。
子供の頃の夢を見ていた気がする。長老の話を聞いていて――
曖昧な夢の内容と眠りに落ちる前の記憶が一致して、サマイクルは一気に目を覚ました。
不覚にも寝入ってしまった己の失態を恥じつつ横を見ると、ケムシリ爺が腹を出して眠っていた。
彼の祈りが通じたのか、妖怪の襲撃もなかったようだった。
「…もしかして、霊力を使われたのか…?」
それなら納得はいかないが理解はできる。
自分が昔話の最中に寝入ることなどありえないのだから。
「久方ぶりの昔語り、できることなら最後まで聞きたかったのに…。」
布団をかけなおしてやりながら、まじないをかけられた恨み言を呟いた。
「……だったら、いつでも聞きにくればいいッペ…。」
夢の中の長老に聞こえてしまったようだった。
「…はい、またいつか。」
この声が聞こえたのかは分からないが、タヌキ面の下の顔が微笑んだ気がした。
暖炉に薪をくべ、火が大きくなったのを確認すると、サマイクルは再び戸口の前に陣取った。
一晩中吹き荒れていた吹雪も少しはやわらいだように見える。
太陽を拝むことはできないだろうが、昼までにはおさまってくれるだろう。
吹雪く先を、サマイクルは睨みつけた。
「負けてなるものか。」
その眼差しは村長として村を守り抜こうという決意が刻まれていた。
2007/10/21