九龍妖魔學園紀

罪の寛容


 夜会当日、夷澤は生徒会室に待機していた。
 夜会の会場に来るならばと仮面を渡されてはいるが、どういう訳か被る気になれない。
 それどころか理由もなく苛立ちがこみ上げてくる始末だ。
 夷澤は舌打ちをして仮面を向かいのソファに放り投げ、ソファに身を投げ出した。
 そしてそろそろ夜会が始まる時刻に差し掛かるころ、生徒会室に訪問者があった。
「おや、夷澤はここにいたんですか。」
 千貫の手伝いをしていた神鳳が顔を出して、夷澤は慌てて寝そべっていたソファから体を起こした。
 突然二人きりになってしまい、内心どぎまぎしてしまう。
 それを表に出さぬよう気を払いながら、ソファに寝転がっていたことへの小言が飛んでくる前に、取り繕うように問いかけた。
「神鳳サン、夜会には出ないんすか?」
 実際はどうであれ、表向きはただの仮面舞踏会なのだから。
 事実、阿門と双樹は参加しているはずだ。
 それに、神鳳の仮面姿は少し見てみたい気もする。
「その準備で僕はもうくたくたなんですよ。」
 苦笑いをして、神鳳は夷澤の向かい側のソファに腰をおろし、背もたれに身を預けた。
 常ならソファに座っても背筋をしゃっきりと伸ばしている神鳳には珍しい。
 そのしな垂れかかった様があまりに無防備で、夷澤は心がかき乱されるのを感じてつと目をそらした。
「その点、千貫さんはすごい人ですよ。一緒に奔走していたのに、そのまま給仕までこなすんですから。」
 千貫の言葉に甘えて一足先に引き上げてきたのだという。
 神鳳はふと無造作に打ち捨てられている仮面に気がついた。
 そして夷澤の心境など露知らず、いつもの調子で冷やかしの言葉を投げかけた。
「夷澤こそ、誰か好きな女の子と約束していないんですか?」
 夷澤は一瞬言葉に詰まった。
「……そんなやつ、いない。」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 好きな女なんていない。目の前にいる男が好きなのだから。

 二人きり。
 阿門も双樹も来ない。
 生徒会室には誰も近寄らない。

 夷澤の心は昂った熱を持ったまま、すうっと冷静になっていった。
 いつの間にか夷澤は立ち上がって、ソファに腰掛ける神鳳を頭の上から見下ろしていた。
 それが何とも言えず快感だった。
 神鳳は疲れていた。夷澤が常と違う精神状態であることをようやく感じ取った。
 しかしその時にはもう夷澤の顔が神鳳の目の前にあった。
「だって、オレは……」
「夷……」
 最後まで言い切る前に、夷澤は神鳳の問いかけの言葉もろとも唇を封じ込めた。

 いつか抱いた「奪ってでも」という思い。
 その時聞いた「それも悪くない」という声。
 他ならぬ彼自身の声が夷澤を突き動かす。

 ソファの背に押しつけるようにして口腔の上顎を舐め、舌を吸い上げる。
 吸気すら奪い取るようなキスをしながら、外した制服のボタンは三つまで数えた。
 残りは床に転がっているのだろう。
 真っ白なシャツがやけにまぶしく見えた。
 上から下までしっかりと留められたボタンを暴くことを考えると心が躍る。
 学園で指定された素っ気ないベルトすら、神鳳のものであると思うと夷澤の官能をくすぐった。
 自分が何をされようとしているのかを察した神鳳が突っぱねようと夷澤の胸を押す。
 体つきこそ華奢ではあるが、毎日弓を引いている神鳳は人並み以上の腕力を持っているつもりだった。
 しかし自然と身についたものと、鍛え上げられた夷澤の腕力では力の差は歴然としていた。
 あっという間に圧倒的な力でソファに組み敷かれてしまう。
 それでも神鳳はのしかかってくる夷澤を振りほどこうと身をよじり、跳ね上がった腕が夷澤の眼鏡を弾き飛ばした。
 抵抗をやめないことに焦れた夷澤は神鳳に顔を寄せ、囁いた。
「大声でも出してみます? 夜会に遅れた生徒が来てくれるかもしれないっすよ?
 あの神鳳充が“下っ端に犯されそうです”ってか?」
 裸眼で少し輪郭がぼんやりとした視界の中、神鳳は恐怖と驚きにいつもより大きく目を見開いていた。
 それでも他人より細いんだなと夷澤は場違いなことを思った。
 神鳳の怯えが震えとなって夷澤に伝わってくる。その度に背中をぞくりとしたものが走った。
 しかし神鳳は唇をかみしめて、掴んでいた夷澤の腕から手を離した。
 そんなにプライドが大事かと鼻先でせせら笑う。
 すっかりおとなしくなった神鳳のシャツを、ボタンを外すのももどかしく引きちぎった。
 はじけ飛んだボタンが床に転がる音がする。
 神鳳はびくりと体を引きつらせたが、目を堅く閉じ、耐えるように顔をそむけただけだった。


* * *


 強引な交わりの果てに、神鳳は肌蹴られた衣服を繕うこともせぬままに意識を手放していた。
 下は最低限ずらしただけで衣服を脱がすことこそしなかったものの、上は肩までむき出しでほとんど着ていないも同然だった。
 そのあられもない様を見ても、底なしに思われた熱は跡形もなく霧散してしまっていた。
 夷澤はただぼんやりと、ソファに身を沈める神鳳を見下ろしていた。
「神鳳、いる?」
 双樹が女性用の仮面を目元にあてがい、おどけた調子で生徒会室の扉を開けた。
 そして目の前に広がる光景に色を失って立ちすくんだ。
「夷澤……あなた……」
 双樹の後ろから覗き込んだ阿門さえも一瞬言葉を呑んだ。
 しかし状況を察した阿門はすぐさま双樹の脇を通り抜け、神鳳の前に立ち尽くす夷澤を殴りつけた。
 阿門の拳は鈍い音を立てて夷澤の顔をとらえ、夷澤は床に背中から転がった。
 口の中にじわりと鉄の味が広がる。夷澤はこの時初めて阿門と双樹が来たことに気がついた。
 のろのろと体を起こす夷澤に構わず、阿門は神鳳の容体をうかがっている。
 そのままふらふらと開け放されたままの扉から出て行こうとするのを傍目にして、
「双樹」
「……はい。」
 短い呼びかけの意図を察して、双樹は気を持ち直して夷澤の後を追いかけた。

「阿門様はあなたをあたしに預けたけど、あたしが説教できる道理はないわよね。」
 夷澤を呼び止め、拾ってきた眼鏡を手渡しながら双樹がつぶやいた。
 相談に乗って発破をかけたのは紛れもなく自分なのだという負い目が双樹にはあった。
 もっと真面目に相談に乗っていればこんなことにはならなかったのではないかと。
 あなたをかばうわけじゃないけど、と前置きして、双樹は語る。
「実行する力がないだけで、あたしだって同じことをしでかすかもしれない。
 あなたとあたし、ちょっとだけ似てるもの。」
 他人より少し外れた倫理観。
 双樹は相手に振り向いてもらうためなら、どんな手段も厭わないつもりだ。
 けれどその相手に拒絶されるのが恐ろしくて、何もできないでいる。
 空虚だった夷澤の心に罪悪感がふつふつとわき上がってくる。
 あの神鳳が恐怖におののき、痛みに眉をひそめ、顔を強張らせていた。
 目元からつうっと流れた悲痛な涙にさえ興奮を覚えた。
 しかし今では後悔しか感じない。
 臆病な自分を棚上げにして、挙句に取った行動は、最も下劣な“暴力”だった。
 今神鳳の顔を思い出すと後悔の念ばかりが押し寄せてきて、夷澤は泣きたくなった。

 その時、生徒会室の扉が開いて、部屋から漏れる明かりが夷澤と双樹の足元を照らした。
「夷澤……いますか?」
 顔をのぞかせたのが阿門ではなく神鳳だったので双樹は驚いた。
 いくらか顔色が悪く声も弱弱しく見えたが、足取りは割としっかりしているようだ。
 神鳳の後ろに阿門の顔が見える。阿門は何も言わずに双樹に頷きかけた。
 二人にしろと、そういうことなのだろう。一抹の不安を残しつつ、双樹は阿門と生徒会室に戻った。
 神鳳と残された夷澤は何を言ったらよいか分からないまま、思ったことをそのまま口に出していた。
「神鳳サン、そのコートって……」
 神鳳は使い物にならなくなった上着とシャツのかわりに、いつも阿門が着用しているコートを着ていた。
 素肌にコートというのがマニアックで、硬質な黒い生地から覗く白い首元が色っぽい……と、性懲りもなく思いそうになって罪悪感が増す。
「ええ、阿門様にお借りしました。僕の制服とシャツは阿門様が縫ってくださっています。」
 ちらりと見えたコートを着ていない阿門も見慣れないものだった。
 その彼が繕い物している姿は相当シュールに思え、夷澤の想像の限界をこえたものがある。
「冗談はさておき。」
 と、ダボダボの袖をブラブラと振りながら神鳳はあっけらかんと言う。
 実際には阿門がボタンを拾い集めて双樹が縫いとめているが、それは彼らの知るところではない。
 こんな状況で冗談を言われ、今までのことは夢だったのではないかと錯覚しそうになる。
 しかしそんなことがあるはずもなく、神鳳は現実であると突き付ける、そして夷澤が待ち望んだ言葉を投げかけた。
「君の処分は僕の裁量にまかせるそうです。」
 夷澤は神鳳の顔を見ることができず、一歩一歩近づいてくる足を見詰めていた。
 ただでさえ丈が長い阿門のコートは、神鳳が着るとほとんど裾を引きずっているようなものだった。
 自分のせいではあるが、足取りがおぼつかないでいる彼には危なっかしいと頭の片隅で思う。
 案の定、神鳳は裾を踏みつけてバランスを崩してしまった。
「あっ」
 どちらともなく発せられた短い声。
 次の瞬間には、神鳳は夷澤の伸ばされた腕に抱きとめられていた。
 しかしほっと息をつく暇もなく、夷澤は慌てて自分から神鳳を引き離した。
「すみません。オレは神鳳サンに触れる資格なんてないのに。
 それどころか、こうして目の前にいることすら……」
 夷澤はくるりと神鳳に背を向け、うつむいた。
「夷澤、そのままで構いません、僕の話を聞いてください。」
 そのまま立ち去りそうな気配を感じて、神鳳は夷澤に話しかけた。
「怖かった。君が僕の知る夷澤じゃなくなったような気がして、知識の上でも…実はよく知らなかったんです。」
 男同士においては、という意味だろう。
 自分ですら触れる機会のないような箇所を押し開かれるのだから、その痛みたるや、恐ろしくないはずはない。
「けれど、あの時誰かに見られていたら……僕はどうにでもなるでしょう。
 でも、君は……」
 言いよどんだ瞬間、神鳳の声が震えた。
「君は、ただでは済まされない。 學園からいなくなる……僕の前から消えてしまう。」

 ―――ちょっと待てよ神鳳サン、これじゃあまるで……

 ついさっき夢ではないと自覚したばかりだというのに。
「そんなのは……嫌です、夷澤……」
 まるで引き留めるように袖を小さく抓まれるのを感じて、夷澤は息を呑んだ。
 ためらいがちに伸ばされた手が、その間際まで迷うように震えていたことを彼は知らない。

「好きです。」

 たったそれだけの言葉を、自分は言ったことがあっただろうか。
 その短い言葉に心臓を鷲掴みにされ、夷澤は動くこともできずに神鳳の告白を聞いていた。
「自分でも知らないうちに、考えないようにしていたんです。前は……一度はそれで忘れられたから。
 気のせいだったのだろうと、そう思えた……。」
 自分ではない誰かのことを言っている……そう察した瞬間に阿門の顔がちらついて嫉妬しそうになり、自分の傲慢さに嫌気がさす。
 阿門は神鳳自身も気づかぬ心中を察し、神鳳に合わせて知らぬふりをした。
「でも……気のせいなんかじゃなかった。
 君がいなくなると思ったら、胸が張り裂けそうになった…。」
 決して表に出さないそれを感じ取れる者は、そうそういるものではない。
 それでも他人より鈍感なのを自覚している夷澤は臍をかむような思いだった。
 過去の想いと、今抱いてしまっている想い。
 二人分の思慕を自覚してしまい、神鳳は何を思ったのだろう。
 夷澤に打ち明けようと決意するのに、短い間にどれだけ悩んだことだろう。
 そして自分は、突っ立っているだけで何をしているんだ。

 そう思い至って、夷澤は言葉より先に神鳳を抱きしめていた。
 神鳳は一瞬びくりと体を震わせたが、振りほどくことはしなかった。
「ごめん…ごめん、神鳳サン。 アンタがこういうのに抵抗ある人だって知ってたのに……。」
 低い背が疎ましい。
 包み込むように抱きしめてしまいたいのに、肩に顔をうずめているのは自分の方だった。

「神鳳サン」
「はい?」
「好きです。」
「…はい。」
「好きだ。」
「はい。」

「アンタが好きだ。」
「僕もです、夷澤。」

 神鳳はそっと夷澤の背に腕を回し、恋人の頭にこつりと額をもたれさせた。
 しばらくそうしていて、ふと顔を離したとき、神鳳は夷澤の腫れた頬に気がついた。
「夷澤、その顔……。」
 夷澤自身ついさっき殴られたことなどすっかり忘れてしまっていた。
 指摘されて思い出してしまうと、今更ながらじりじりと痛み出してくる。
「阿門サンにぶん殴られました。」
 正直に白状すると神鳳は驚いて目を丸くして、にわかに顔を曇らせた。
「本来なら、僕が君をぶつべきなのでしょうね……。」
 阿門は神鳳が夷澤を受け入れることも、双樹が咎めないことも、何もかもお見通しだったのだろう。
 その上で、彼だけが夷澤を殴れたのだ。
 神鳳が腫れた頬に手を伸ばそうとすると、夷澤は一歩身を引いて軽く腕を広げた。
「横っ面張り倒すなり、ボディにぶちかますなり、どっからでもどうぞ。」
 困惑の色を隠せない神鳳に夷澤が言う。
「こんなことで許されやしないだろうけど、オレは神鳳サンに殺されたって文句は言えないようなことをしたんだ……。」
 さあ、と目を閉じて促してくる夷澤は至極真面目なようで、彼なりのけじめのつもりらしい。
 クールに見えて熱いものを持つ彼らしいとも言えるかもしれない。
 夷澤なりの誠意を無下にしたくないが、どうしたものだろう。
 神鳳が目の前に立ったのがわかった。
 やはり平手打ちだろうか。いや、この距離からすると意外と腹に膝蹴りかもしれない。
 意表をついて頭突きをしてくるかもしれない。神鳳との身長差だといいのを貰いそうだ。
 そんなことをつらつらと考えていると、神鳳が腕を伸ばしてきたのを察して夷澤はいよいよ歯を食いしばった。
 しかし覚悟していた平手打ちも脳天唐竹割りもこずに、

「許します。」
 頬を優しくなでる感触があるだけだった。

 目を開くと、ふわりとした微笑みを浮かべた神鳳がいる。
 夷澤が一番神鳳らしいと思う、最も好きな表情だった。
 その短い言葉にまた夷澤の心が救われて、目頭がつんと熱くなった。
「夷澤、君泣いて……」
「泣いてないっすよ。」
 ごまかすように神鳳に抱きついた。
「くっついたり離れたり、せわしない人ですね君は。」
 ふふ、と笑って頭を撫でられ、すっかり子供扱いなのが気に食わない。
 けれど神鳳はすっかりいつもの調子に戻っていて、それがたまらなく嬉しかった。
 ただ一つ違うのはこうして抱き合っていること。
 この上ない幸福感に包まれながら、つぶやいた。

「神鳳サン……」
「どうしました?」
「ありがとう。……大好きだ。」
「僕もですよ、夷澤。」



2009/03/21
2011/12/10少し文章をいじりました。

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