「あれ、双樹サンだけっすか?」
夷澤が生徒会室につくと、そこには退屈そうに爪をいじる双樹がいるだけだった。
「神鳳じゃなくて残念ね。彼なら部活の用事で遅れるそうよ。」
「オレはべつに……」
「そう? でも夷澤は何だかんだで会議の集合には早くに来るじゃない。」
神鳳は大抵一番乗りだものね、と揶揄する双樹はどこか楽しげだった。
膝枕を目撃されて以来、夷澤は双樹と二人だけになった時はこんなやりとりばかりしている。
「今度からもっと遅れてあげましょうか?」
「余計な世話っすよ。」
ぶっきら棒に言って、ずれてもいない眼鏡を押し上げた。
「あら、機嫌を損ねてしまったかしら?」
くすくすと笑みを漏らす双樹に悪気はこれっぽっちもない。
元々色恋沙汰の話題が好きで、ちょっと意地悪をしたくなるのが玉に瑕。
しかし意外と世話焼きな一面もあるから憎めないのが双樹なのだ。
「夷澤は神鳳のどこに惹かれたの? いつごろから?」
返事を期待せずに訊ねてみると、
「いつだったかは覚えてないんすけど、あの時のことははっきりと覚えてる……」
大切なものをそっと引き出すように、夷澤はぽつりと呟いた。
臨時の会議が開かれることになり、夷澤が神鳳を呼びにいくことになった時のこと。
武道場と弓道場は隣接しているものの、中をのぞいたことすらなかった。
実戦的な要素のある剣道と違って、弓道などお遊びのようなものだと高をくくっていた。
そう思っていた夷澤が、初めて神鳳充が弓を引く姿を見た。
道場の空気、弓弦、神鳳の背筋。何もかもがピンと張りつめていた。
“精神美”のような、感覚的なものに疎い夷澤でも……いや、だからかもしれない。
その体現を目の当たりにして圧倒された。
声をかけるのもはばかられるような清澄さ。夷澤とは違う、静かな精神の形。
それは侵し難く、とても美しいものに見えた。
神鳳の指を離れた矢は一直線に的の中心に突き刺さった。
一連の動作を終えて神鳳は肩の力を抜き、ようやくこちらを振り向いて、
「おや夷澤、何かあったのですか?」
初めて夷澤の存在に気がついたのだった。
夷澤が神鳳の射に見惚れている間、彼はもっと遠くにある的しか見えていなかった。
――オレはこんなに近くにいるのに……。
「きっかけそれだったんだと思う。 オレを見てほしくて、神鳳サンの中で大きな存在になりた……」
そこまで喋って、熱心に聞き入る双樹に気がついて夷澤は顔を赤らめた。
「あ…いや、あの……くそっ、何言ってんだオレは……」
「フフ…おねぇさんが相談に乗ってあげましょうか?」
世話焼きの血がうずく双樹に、夷澤は怪訝そうな視線を投げかける。
「いやね、あたしが言いふらしたりなんかすると思うの?」
確かに双樹はゴシップ好きな面もあるが、義理堅さもあわせ持っており、ゴシップの発信源になることはない。
むしろゴシップの種になる側の存在だった。しかもそれを楽しんでいる節もある。
それに夷澤は男で神鳳も男である以上、おいそれと相談できるようなことでもない。
双樹の言葉は正直言ってありがたいものだが、意外でもあった。
あの人物を引き合いに出すのは業腹だが、朱堂茂美はある意味双樹の天敵だからだ。
それを言うと、
「あたしはね、誰かに一途な想いを抱いている人は好きよ。
真剣に誰かを想うのなら、そこには性別も年齢も関係ないと思ってる。」
実に情熱的な双樹らしい。
「なのに朱堂ちゃんときたら、いい男と見れば粉をかけまくって……とんだナンパ野郎よ!」
「確かにあの人は見境ないっすよね……。」
夷澤にとっても天敵である。彼に追い回される恐怖は経験者にしか分からない。
クラスメイトである神鳳と真里野剣介は苦労していることだろう。
これ以上朱堂のことを思い起こしていると夢の中にまでクラウチングスタートで追いかけてきそうだ。
夷澤はそれを振り切るように双樹に訊ねた。
「で、差し当たり何かアドバイスあるんすか?」
「そうねぇ、神鳳は倫理の塊みたいなものだし、ハードル高いわよね。」
ハードルを華麗に飛び越えながらこちらに向かってくる朱堂が脳裏をよぎってしまった。
今夜は安らかな眠りは得られそうにないと夷澤は腹をくくった。
そんな夷澤に気づくよしもなく、双樹は唇を指でなぞりながら思考を巡らせる。
「少しずつにじり寄って、隙あらば押し切って押し倒すくらいの気概でいくしかないんじゃない?」
「それのどこがアドバイスなんすか。」
とは言うものの、多少強引にいかないと気持ちは伝わらないであろうことは事実ではある。
「ところで聞いてなかったけど、夷澤は神鳳が好きなのよね?」
「……好きっすよ。でなきゃこんな会話してませんよ。」
「それで、あなたは神鳳とどんな関係になりたいの?」
「そ…そりゃあ……」
ただ友達付き合いをしたいというのなら、ここまで悩んだりしない。
「恋人同士になりたいっすよ。」
夷澤がきっぱりと言い放つのと扉が開いたのはほぼ同時だった。
会議で使う資料を片手に扉を開けた神鳳と、その後ろに佇む阿門。
「え……あの……」
神鳳は仄かに顔を赤らめ、阿門も驚いたように目をしばたかせている。
二人ともめったに見られないような表情だった。
阿門も神鳳も他人の話を立ち聞きするような人間ではないので、今までの話を聞かれたわけでもないはず。
なのに神鳳の狼狽ぶりはどうしたのだろう。
「……邪魔をしたか?」
阿門の言葉に夷澤と双樹は自分たちを鑑みてみた。
声を大にはできない話題だったため、同じソファに身を寄せ合うようにして腰掛けている。
当然、二人の距離は近い。
そして扉を開けた瞬間に聞こえたセリフが夷澤の「恋人云々」とくれば……。
「違うんです阿門様ぁ!ただ人生観というか恋愛観を語っていただけで、他意はないんですぅぅッ!」
神鳳以上に狼狽した双樹が慌てて阿門に縋りつく。
「そ、そうそう。禁断の恋っていうか、そういうシチュになったらどうするかって話で…」
双樹の言葉を継いで、どうにか話を取り繕うが、一応嘘はついていない。
しがみつく双樹をなだめだがら、阿門はちらりと神鳳を一瞥し、夷澤に目を向けた。
「そしてお前は禁忌を犯す道を選ぶという訳か。」
阿門の何もかもを見透かしたような眼が夷澤を射抜く。
「……そういうコトっすね…。」
たじろぎそうになりながらも、どうにかその視線をそらさずにいると、神鳳が大きく息をついた。
「おどろいた。 てっきり夷澤が双樹さんに思いを告げたとばかり…」
やはりそういう風に見えていたらしい。
阿門はようやく夷澤から目を離し、双樹をなだめにかかった。
神鳳に救われて夷澤は内心ほっと胸をなでおろした。
「……神鳳サンだったら、どうします?」
「禁断というと……既婚者に懸想するような?」
「ああ、それも禁断っすね。」
むしろそちらの方が一般的な禁断の恋なのだろう。
神鳳はあまり得手ではない類の問いかけにしばし考え込んで、
「僕だったら……黙って身を引くでしょうね。」
「もしも、相手と両想いだったとしても?」
「ええ、おそらく。」
でも、と神鳳は思いついたように一息ついて、
「その女性の相手が暴力を振るう男だとか、何かしら事情があるなら話は別ですけどね。」
そう言うと、資料をソファの前のテーブルに配り始めた。
道徳的で、神鳳らしい回答だと思う。
きっと“既婚者”を“男性”に置き換えても同じようなことを言うのだろう。
倫理の罪悪感に苛まれながら悩んで悩み抜いて、そして無かったことにする。
そんなのは嫌だと夷澤は思う。
自分には万に一つもチャンスがないということじゃないか。
――オレだったら、奪ってでも……
物騒なことを考えそうになって、夷澤は頭を振った。
けれど、それも悪くないと心の中で声がする。
夷澤は神鳳のような強い倫理観など持ち合わせていない。
そのことに夷澤は感謝していた。
――そのお陰で、アンタに惚れても罪悪感は湧かないんだからな……。
2009/03/21