犬夜叉

月の宴


 広い屋敷の奥深い閨の内。
 互いを求める激しい熱情は過ぎ去り、まとわりつくような余熱が褥に横たわる殺生丸をまどろみへと誘う。
 帳を縫って吹き込む僅かな微風が気を落ち着けてくれ、闘牙王は心地良さに目を細めた。
 冴える月はじきに満月に届こうかという頃合いで、ほのかな光を室内へ運び、一糸纏わぬ殺生丸の白い髪と肌をいっそう美しく映えさせた。
 二人が情を通じるようになったのは割と最近のことだ。
 二重の意味で愛しい我が子を見つめながら、闘牙王は物思いにふける。
 その事案は何気なく冥加と交わした会話から端を発したものだった。
 ふと訊ねてみたのだ。お前は殺生丸が笑むのを見たことがあるか、と。


* * *


「殺生丸さまの笑みでございますか?」
 小さな従者は四本の腕を組んで思案顔をした。
 無理もないだろう、日頃から眉ひとつ動かさないのが殺生丸の常なのだから。
 無い、と言えば主人の気に障ると思ったか、冥加はひとしきり唸ったのちにぽんと手を打った。
「そうそう、戦場でお見かけしたみぎり、敵を打ちのめした殺生丸さまの口元は笑みを形作っておりましたぞ」
 他勢力との雌雄を決する大戦。両陣営ともに配下を引き連れての白兵戦だった。
 冥加は戦場で闘牙王の肩から逃げ損ね、おまけに転げ落ちてしまい、右往左往しながらもどうにか近くにいた殺生丸の毛皮にとりついた。
 血煙が月明かりを染めるかのような激戦で、その最中に敵の大将が化け犬一族を大音声で罵った。
 一見すると冷静そのものだが、近くで見ていた冥加は一族の中でも若い殺生丸に怒りの炎が灯るのを感じた。
 先と変わらず罵声が耳に届かなかったように爪を振るうが、その勢いは先ほどまでの比ではない。
 冷然と敵兵を屠り、陣形を突き崩す。
 ついには敵大将をその爪にかけて討ち取るまでに至ったのだった。
 そしてその時に口角を僅かに吊り上げ、笑みを浮かべたという。
「舞い散る血肉を背景に白月に照らされた殺生丸さまは、御芳容と相まっていっそ凄艶とでも申しましょうか。
 こう、お味方ながら背筋がぞくっといたしました」
「そうか、それは良いものを見たな。お前もたまには戦場に留まるのもよかろう」
「そんな殺生な、お館様ぁ」


* * *


 その時はそれで終わったが、今になって尾を引いて気になったのだ。
 殺生丸は闘牙王の前であってもあまり表情を動かさない。
 それは彼の性分だし、戦いの上ではむしろ優位に働くだろう。
 感情の起伏が緩やかなだけで冥加が見たように怒りもすれば笑いもする。
 だからこそ、凍りついた心の持ち主ではないからこそ、気になったのだ。
 殺生丸が己に向ける慕情を疑いはしない。
 しかしそれは己が殺生丸に向ける熱と同じものなのか。
 妖怪は人間ほど強い倫理観は持ち合わせていない。
 それでも親が我が子を手籠めにするなど狂気の沙汰だ。
 初めて情を通じた時そうだったように、“命令”で望まずに付き合っているだけなのではないか。
 そんな思考が錯綜して闘牙王を悩ませた。

 そんな葛藤を知ってか知らずか、気だるそうに殺生丸の瞼がゆるりと開かれ、物憂げな父の顔を見上げた。
「父上、どうかなさいましたか」
 そのかすれ気味な声に心中で謝りながら、闘牙王は物憂い表情をひっこめた。
「いや、なんでもない」
 殺生丸は納得しかねるような顔をしたが、閨事の後の独特の眠気に勝てずに沈んでゆく。
 やがて小さな寝息が聞こえてきて自然と口元がほころんだ。

 なんでもないと言ったものの、近頃殺生丸の笑顔を見たのはいつだったかを考えると心許なくなる。
 どうしたら笑顔を見せてくれるだろうと思いあぐね、贈り物でもしてみようかと考え付いた。
 近頃贈ったものといえば桜模様を散りばめた振袖だが、柄を見た殺生丸に思い切り渋い顔をされた。
 それでも着てくれているのは満更でもないからだと思いたい。
 もう少し大人びてきたら、今より落ち着いた風情の亀甲花菱に霞の染の着物を着せようと決めているのだから。
 それはさておき。
 彼が欲しがっているものといえば叢雲牙だろうが、あの性悪刀を殺生丸に近づけたくはない。
 独楽や竹馬で遊ぶような年齢はとっくの昔に過ぎている。
 女に贈って喜びそうなものならいくらでも思い浮かぶが、息子に贈って喜びそうなものが思いつかない。
 駄目父ぶりが嫌になるが、ふとひらめいた。
 何も物にこだわることはないのではないかと。



 夜半に闘牙王を訪れよと言付かった殺生丸はその通りにし、思いがけない光景に目を丸くした。
 月を望む縁に小さな宴席が設けられていた。
 しつらえられた席には闘牙王がすでに座しており、手招きをして殺生丸を隣の席に誘う。
 宴自体は珍しいことではないが、繁華を好む闘牙王にしては楽もないのは珍しいことだった。
「なに、これまで二人だけで杯を交わすというのがなかったからな。」
 先日ひらめいたのがそのことで、思いついてしまうと居ても立ってもいられないのが彼の性格。
 折しも今宵は望月。二人だけの酒宴を催すには絶好の機会と、すぐさま準備をととのえたのだった。
 殺生丸のためと言いながらも酒は瓶ごと鎮座しており、肴も彼の趣味で用意してしまったが。

「殺はあまり酒宴に顔を出さぬが、酒は嫌いか?」
 差された酒を干して闘牙王がたずねる。
「そういうわけでは…ただ、騒がしいのは少しばかり…」
 その返事に安堵した。酒が飲めないのであれば殺生丸に酌をさせるばかりになってしまう。
 それはそれで心動かされるが、やはり味気ないというもの。
「そうか、俺は騒ぎながら飲むのも静かに飲むのも好きだがなあ」
 殺生丸の手の銚子を受け取り彼の杯を満たし、差しつ差されつ酌み交わす。
 初めこそどこか覚束ない態で杯を舐めていた殺生丸も、次第に慣れてきたのか小気味よく飲み干すようになる。
 その飲み方が自分や雲の上にいるであろう妻と重なり、それがなんとも嬉しい。
「今宵は良い月だ。しっぽり飲もうぞ」

 しっぽり飲もう、と言ったものの。
 生来、闘牙王は快活な性格で、一応この酒宴の目的も忘れてはいない。
 加えて酒が入った結果、
「“隣の庭に囲いが出来たってね”、そして男が返すわけだ、“へー”とな」
 堪えきれずに噴き出す闘牙王と対照的に、殺生丸はそんな父を不思議そうに眺めるだけだ。
 笑わせてやろうと二つ三つと小話を聞かせるも、自分ばかりが笑っている。
 普段から笑い上戸な傾向はあるが、酒の力でいつも以上に笑いの沸点が下がっているらしい。
 当初求めていたものと笑顔の意味がずれているが、そんなもの酔っ払いには関係ない。
 そこで奥の手の強硬手段にでることにした。
「この強情息子めがー!!」
 言うや否や脇腹に手を伸ばしてくすぐりだす。
「え!? ち、ちちう…っ」
 さしもの殺生丸も逃れようと体を引くも、あっさりと圧し掛かられて身動きがとれなくなってしまう。
 せわしなく脇と脇腹を行き来する手をすげなく振りほどくこともできず、身をよじることしかできない。
「ふ…っく……」
「さあ、どうだ!」
 そろそろ頃合いかと、揚々と殺生丸を覗き込んだ闘牙王は思わず手を止めて息をのんだ。
 堪えるようにひそめられた眉に上気して汗ばんだ頬。
 きゅっと噛まれた唇がいじらしく、肩を震わせて耐える様は悩ましく理性を掻き乱す。
 闘牙王はそっと体を離すと、深呼吸をして掻き立てられた心を鎮めようとつとめる。
 執拗な責めに耐え抜いた殺生丸は、その隙に身を起こして乱れた襟元をただした。

 降って湧いたような父の奇行に柄もなく臆しながら、殺生丸はおずおずと声をかける。
「あの、父上…」
「いや…すまん。 何でもないんだ、忘れてくれ」
 言い繕って殺生丸を振り返ると、酔いも劣情も吹き飛ぶ心地がした。
 憂慮の面持ちをしてこちらを見ていたのだ。
 戦場で敵に囲まれたときでさえ毅然とした表情を崩さなかった彼が。
 闘牙王は己の短慮な行動を悔み、素直に訳を話した。
「お前の顔が笑うのを見たいと思ったら、つい強引になってしまったのだ」
 初めの思惑では、共に酒を飲む中でふと笑みでもこぼしてくれるのを見られればいいはずだったのに。
「すまなかった、こんなことにつき合わせて」
 ついつい欲張ってしまうのは悪い癖だと自戒し、真剣な面持ちで頭を下げた。
 するとふっと息の漏れる音が聞こえ、そろそろと顔をあげると、闘牙王は三度目を見張ることとなった。
「なんだ、そんなことですか」
 父の目をはばかるように、控え目な忍び笑いをくすくすともらしていた。
 楽しげというよりも、憂いが晴れて愁眉を開いたような様子で、
「近頃様子がおかしいのでどうなされたのかと…」
 そう言って息を吐き出す殺生丸は安堵の表情にふわりとした微笑を浮かべていた。
 いつだったかそれに似た微笑みを見たような気がして、心臓がどきりと脈打った。

 ――ああ、そうか。

 思い出されたのは、ほんの少しの罪悪感が交錯する甘美な記憶。
 初めて殺生丸を抱いたあの日のこと。
 慣れぬ体を半ば強引に開かせ、己の欲をぶつけるばかりの契りだった。
 力なく横たわる殺生丸をかき抱いて思いを告げ、闘牙王の腕の中であんな笑みを浮かべたのだ。
 許容と情愛の入り混じった微笑み。

 思い出し、悟ることがあって闘牙王はきまり悪そうに頭をかいた。
 殺生丸に申し訳なく、あの日のことはあまり思い出さないようにしていたが、それが裏目に出てしまった。
 思い悩むことなどなかったのだ。
 表に出さないだけで自分はこれほど愛されているのだから。
「ああ、馬鹿だな俺は…」
「なにを仰る。今宵父上と共にあって楽しゅうございました」
 自嘲の笑いを浮かべる闘牙王に、先ほどのことなど忘れたように殺生丸は言葉を返す。
 愛おしさがこみ上げて、つと触れた頬は常の白さを忘れさせるように淡く朱に染まり、温かい。
 引き寄せると殺生丸は抗うことなく身を任せ、闘牙王の胸に顔をうずめた。
 唇は微笑みをたたえたまま、闘牙王を見上げる瞳に熱に潤んでいた。
 吸い寄せられるように自然と顔が近付くと、殺生丸はそっと目を閉じた。

 唇が重なろうかという時、闘牙王は違和感を覚えて動きを止めた。
 閉じられた目、整った呼吸、弛緩した体。
 つまりこれは、
「……飲ませすぎたか」
 瓶の中は空に近い。考えてみれば闘牙王が酔うほど強い酒だったのだ。
 いい所で寝てしまったのは口惜しいけれど、この微笑みを崩すのが忍びなく、口づけは慎むことにした。
 殺生丸がいつまで正気だったのかはわからないが、酔えば本心がでるもの。
 それを垣間見れたことを思えば、口づけの一つよりも満たされる。
 普段から表情が乏しい分、ほんの少し目元が緩み口元が綻ぶだけで、こんなにも穏やかな顔つきになることを本人は知らないのだろう。
 他の者にもその顔をみせてやれば、彼に近寄りがたいと思う者にも慕われように。
 父親らしいことを思いつつ、これは自分だけのものだという愉悦にひたるのだった。

 この庭を訪れるものはない。
 朝が来るまでか、目を覚ますまでか、ずっとこうしていよう。
 闘牙王が殺生丸を独占するのを、月だけが見ていた。



2010/06/06

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