そして、討伐当日。
「おお、よく似合っておるぞ殺生丸。」
おずおずと館の正門前に現れたのは、衣被姿の殺生丸だった。
正直言って褒められたところで嬉しいはずもない。このような屈辱的なこと、衣被のお陰で顔が見えないからまだまし…という体裁なのだから始末が悪い。
女物の着物に袖を通すことに抵抗が無いわけもないが、襟周りと袖はそれほど気にならない。しかし、頭から被いた小袖で指貫になれた足元がおぼつかない。
ただ、それを見るほうからすれば、いまだ成長過程にある身体つきも相まって、そこに少女がいるようにしか見えなかった。
むしろ衣被からのぞく白いあごや草履の素足が、年齢を感じさせない色香を漂わせていた。
「あの、父上…何も館で着替えて行く必要はなかったのでは…。」
「不用意な動きをして警戒されては敵わぬからな。」
それに、と言いかけた所で、父の懸念していた通り殺生丸が被いた小袖を踏ん付けた。
珍しく小さく悲鳴を上げてつんのめる形となった息子を胸で受け止めて、そっと腕を背に回して抱き留める。
「それに、移動の間に歩く練習にもなろう。」
「申し訳ありません…。」
己の失態を恥じて殺生丸が離れようとするも、父はそれを許さずに腕の力はとかれない。
困ったように見上げてくる息子の顔をじっと見詰めて、にっと口角を吊り上げた。
「この着物にそなたの口唇は淡すぎるな。どれ、一つ父が紅でも差してしんぜようか。」
「そ…それはご容赦の程を…。」
からかうような口ぶりに、殺生丸の頬にさっと朱が差した。その様を見て、どこか満足気に笑みを深める。
濃厚な雰囲気が二人を包み、甘美で不可侵な空気があたりを支配していた。
先に我に返ったのは殺生丸のほうだった。
自分たち親子が立っているのが館の正門であることを思い出し、恐る恐る目線だけで辺りをうかがってみると、主君親子の出陣を見送りにきた数人の臣下がそれはそれは居辛そうにしていた。
二人の関係が公然の秘密とはいえ、凝視するわけにはいかず、かといって見送りが済むまでは勝手に立ち去ることもできずに、すっかり固まってしまっていた。
そんなことには目もくれず、ちゅ、と音を立てて息子の頬に口付けたのと、それに驚いて思わず殺生丸が爪を剥いてしまったのはほぼ同時だった。
* * *
深い森の中をゆっくりと歩む影があった。無論、それは己が妖気を内に秘めた殺生丸。
上等な、しかし鼻に付くような嫌味のない上品な衣被を、今度は優雅にさばいて。
――この界隈か…。
着物に焚き染めた香で鼻が利かず、目と耳を澄まして辺りを警戒しながらも、足を止めることはせずにそのまま歩を進めていた。
それを見守るもう一つの影が風下の上空にあった。
しかし木々の梢に遮られ、どちらからも目視することはできない。こちらは殺生丸とは逆に鼻だけでその様子を窺っている。
付近に大き目の妖気がいくつかあるが、今のところ大きな動きをみせる者はいない。
そんな彼の頬には、引っ掻かれたあとがしっかりと瘡蓋になって残っていた。
――殺のやつ、思いっきりやりおって…。
長年培ってきた勘と化け物じみた反射神経で直撃はまぬがれたものの、もしそうしなければ頬の肉が削ぎ落とされていたに違いない。毒の爪だったならもっと悲惨なことになっていただろう。
仮定のことながら、身が凍る思いだ。
おまけに、万が一血の匂いをかぎつけられることのないよう、予定よりも遠いところから見張ることになってしまった。
事が済んだらどう意趣晴らしをしてやろうかと考えていると、一つの妖気が動いたのを鼻で感じた。
何かが空気を切る気配で、殺生丸は敵の襲来を知った。
鼻が使えない分ほんの少し動くのが遅れたが、首に巻きつくはずだったそれは殺生丸が反応した分だけ目標がずれ、左手首に絡みついた。
顔を隠していた衣被が宙を舞い銀色に輝く髪を躍らせて、ふわりと地面に落ちるまでの、あっという間の出来事だった。
手首を締め付けるそれは妙に生ぬるく湿っており、生き物の舌の感触に似ていた。
「ほぉう、ちぃとばかり幼ねぇが、こいつぁ上玉だなぁ。」
それの伸びた先から締まりのない声がして、舌の持ち主があらわれた。
舐めまわすような不快な視線を殺生丸に向けてくる。どうやらこいつが目的の妖怪らしい。
殺生丸は眉一つ動かすことなく舌の絡まった左腕を勢いよく手前に引いて、伸びきったところを右の爪で切り裂いた。
妖怪は悲鳴とも咆哮ともとれる叫び声をあげ、木の葉をびりびりと震わせた。
切り落とした先端部分を無造作に放り捨てて、殺生丸はこきりと指を鳴らして次はその喉笛を引き裂かんと地を蹴った。
妖怪は切られた舌をずるりと一旦引っ込めると、迫り来る殺生丸にむけて吐き出すように何本もの舌を一度に繰り出してきた。
跳び退さろうと足に力をこめたが、意思に反して体は引き倒されるように後ろへと傾いだ。
着物の裾を踏み付けたのだと気付いたときには舌の波が目の前に迫っていて、その妖怪と対峙してから初めて殺生丸の額に冷や汗が浮かんだ。
だが、戦いはあっけない幕切れをみせた。
「殺生丸!!」
急ぎ駆けつけた犬の大将は状況を瞬時に見て取り、妖怪の吐き出す肉の蔓を振り下ろした剣で一閃して、続けざまに横へ薙いで妖怪の首と胴を切り離していた。
いかに並みの妖怪では歯が立たないといえ、この親子の、とりわけ犬の大将の敵となるほど強い妖怪でもなかったのだった。
首の無い胴体がどうと倒れるのも見届けず、既に剣も鞘に収めて息子のもとへと駆け寄っていた。
間一髪絡みつく直前で間に合ったものの、ぼたぼたと降り注いだ肉片に殺生丸の体はすっかり埋もれてしまっていた。
「大事無いか、殺?」
「…ご心配には及びませぬ。私の不手際ゆえ…。」
己に降りかかった肉片をのけて身を起こしたのを見て、父はほっと胸を撫で下ろした。
殺生丸の方はといえば、日に二度も同じ過ちを犯したことに嫌悪し、悔しそうに紅の引かれた唇をかみしめていた。
くわえて、肌蹴られた襟元と裾から覗く、普段は晒されることのない白い素肌。
常なら一糸乱れず背を流れる髪が乱れて頬にかかっていて。
さらに、辺りに散らばる肉の蔓が妙に卑猥で…。
「うっ…」
呻いて、息子に背をむけてがくりと膝をついた。
「父上…? まさかどこかお怪我を!?」
「寄るな、殺! 来てはならぬ」
殺生丸が駆け寄ろうとするのを慌てて制した。
――あんな色気ふりまいておいて、誘ってるわけじゃないのだから参ったものよ…。
惚れた方が弱い、というのもあるのかもしれないが、両方の意味でこの息子の始末をどうしてくれようと内心頭を抱えた。
潔癖な彼のこと、屋外で事に及ぼうなどということをすれば、むこう数ヶ月は目も合わせてくれないだろう。だが慣れない環境で羞恥に顔を染める様も見てみたい、という嗜虐的な欲求もあるのが本音だったりもする。
「父上!血の匂いが…!」
「あ…案ずることはない。ただの鼻血だ…。」
数刻ののち館に凱旋した折に、大将の顔に引っ掻き傷が増えていたとかいないとか。
兎にも角にも、こうしてまた犬の大将が治める領地に平穏が戻ったことは確かだった。
2006/09/23
2011/12/12少し修正。