弥勒は殺生丸の髪に触れるのが好きだ。
今宵も大樹の下で身を寄せ合い、肩に回した右手で絹のような銀色の髪を梳る。
月の光をはじく長い髪に指を差し入れて毛先まで流し、ほつれが無いか確かめるように撫でつける。
指先に絡めて自然と解けるさらさらした感触を楽しんだ。
その間、殺生丸は長い睫毛でけぶる瞳を細め、大人しく弥勒の肩に頭を置いている。
髪から伝わるむず痒さに、時折小さく頭を振って身じろぐ様が愛おしい。
抱き寄せる腕に伝わる着物越しの体温。
豪腕に比して存外な体つきの、その裸身の眩しささえ弥勒は知っている。
いつからだろう、この大妖が鎧を外した姿で現れてくれるようになったのは。
「……っ」
「あっ…」
時を同じくして殺生丸が僅かな痛みに息を呑み、弥勒は短く声を上げた。
見ると右手に巻かれた数珠に殺生丸の髪が一束絡まってしまっていた。
「も、申し訳ございません……」
ピンと張った髪を慌てて緩め、弥勒は愛想笑いを送る。
しかし殺生丸は興を殺がれたようにそっぽを向いてしまった。
ええい忌々しい、こんな時にまで俺に仇なすのか。御髪が痛んだらどうするんだ。
苦々しさを噛みしめながらもそれを顔に出すような無粋なまねはしない。
手をこちらへ戻すことができずに、殺生丸を抱きこむようにしてほどきにかかる。
その様子を、正確には弥勒の右手を、殺生丸は横目で見遣る。
「……奈落の風穴か。」
目についたものを口に出しただけの声だったが、弥勒ははっとなって一瞬動きを止めた。
暗澹としたものがこみ上げてくるのを感じ、表に出ぬようそれを押し殺した。
「申し訳ございません。」
髪を解き切って同じ言葉を口にする。だが先ほどの戯れたような空気は微塵もない。
「このような呪われた手で殺殿に触れようなどと……。」
心の底で誰かが叫ぶのを感じた。
それを聞き流してどうにか笑みを作ろうとしたが、苦笑いの形にしかならなかった。
殺生丸にとんでもなく汚らしいものをなすりつけているような気分になって右手を引っ込めた。
それならば逆の手で触れればよいのだろうが、彼の左側にあることを許してくれるのが嬉しくて、今だって移動する気になどなれない。
己が手を眺める弥勒の消沈した顔色は、さしも人間の機微に疎い殺生丸にも伝わってくる。
「その手が奈落のものというわけでもあるまい。」
至極当たり前な言葉の言外に、自分への気遣いのようなものを感じるのは自惚れではない。
この冷たい大妖怪が弥勒に情を示すようになる過程をこの目で見てきたのだから。
「ですが、真っ白なあなたが穢れてしまいそうな気がして……。」
先程の心の声が大きくなったのを感じた。
殺生丸はやや不機嫌そうな面差しで弥勒から目をそらさずにいる。
その真っ直ぐに見詰めてくる瞳に縋りつきたくなるのを感じて、常ならず視線を外した。
そして目を合わせぬまま、弥勒は仮定のことを話し出した。
「この風穴がわたしを呑み込もうというときは、ちゃんと俺から離れてくださいよ。」
弥勒にだけ聞こえる声が恐ろしいことを言っているのだと彼は気づいていた。
その声を止めることができない。
違う、違うんだと、言い聞かせるように続ける。
「殺殿まで巻き添えなど、まっぴらですからね。」
―――あなたも、共に―――
今やはっきりと聞こえたその声音は、他ならぬ弥勒自身のものだった。
口に出す言葉とは裏腹のどす黒い声。
触れたいと、穢したいと、離れるなと、そして自分と共に闇に堕ちろと。
彼を思うがままにしたいというその声に、抗い切れない魅力を感じる自分が恐ろしかった。
こんな弱い人間に、殺生丸はなにを想うのだろう。
「戯け者が。」
苛立ちを含んだ声音が弥勒の顔を上げさせた。
ずっとこちらに向けられていた黄金色の瞳と視線が絡み合う。
もう随分と近くで見続けたはずなのに、改めて見る白い妖の美しさには息を呑むばかりだ。
弥勒の視線が自分に注がれたのを見て、殺生丸は形の良い唇を笑みの形に曲げた。
それはひどく薄情で、惨忍ささえ感じられる妖怪の微笑み。
その微笑のまま殺生丸は言葉を紡ぎ出す。
「貴様はこの殺生丸が人間の言葉に従うとでも思うのか。
たかが奈落の呪いから尻尾を巻いて逃げ出すと思うのか。」
優しい励ましも、甘い睦言も、何一つ吐き出されることはない。
だがその言葉の意味することに、弥勒は目頭が熱くなるのを止められなかった。
――あなたは最期まで、俺の傍にいてくれると云うのか。
「吸われる前に貴様なぞ一飲みに喰らい尽してくれる。」
笑みの端から牙をちらつかせ、恐ろしげな言葉を事も無げに吐き出す彼は、やはり生粋の妖怪なのだ。
「それも、よろしゅうございますなあ。」
あの奈落を「たかが」と一笑に付す傲慢さ。その傲慢を裏付ける強大さ。
恐ろしい微笑みを湛えたその顔ばせは、いっそ彼の美しさを引き立てる。
慳貪な物言いの裏側にある、情を持たないはずのこの大妖怪の慈悲。
今の弥勒には、殺生丸の存在そのものが天からの贈り物のように思え、そして殊更愛おしい。
今度こそ弥勒は殺生丸に縋りついた。
背に取り縋り、あふれる涙を隠して肩口に顔をうずめた。
一体何年ぶりだろう、こんなに弱気になったのは、こんな風に泣くのは。
「ちくしょう…ちくしょう! 死んでたまるか! 死なせてたまるものか、このクソ呪め!
こんなに好きなんだ、愛してんだよ! なのに死んでたまるかよ畜生!」
殺生丸は慰めや励ましの言葉など知らない。初めから持っていない。
めちゃくちゃに喚く弥勒の背に隻腕を添えただけだ。
けれどそれだけで弥勒の心は慰められる。
殺生丸が隣にいてくれるだけで弥勒の心は救われる。
法師が妖怪に縋り付き、妖怪が法師を慰める。傍から見れば愚かで、滑稽ですらある。
しかしそれは弥勒が殺生丸の前で初めて示した、飾り気のない本心の姿だった。
2009/04/11