りんと邪見と離れて一人空を行く殺生丸の鼻が異母弟のにおいをとらえた。
風上に目をやると、なるほど遠くに人間の集落が見える。
犬夜叉がいるということは当然弥勒もそこにいるのだろう。
だからと言って、常ならばよほどの事がない限り出向くことはない。
だが、今回は気紛れをおこした。会おうとは思わないが、顔くらいは拝んでおこうと思ったのだ。
いくら鼻が利くといっても、風下にいれば犬夜叉に気取られることもない。
「わたしの子を生んでくださらんか。」
殺生丸の聡い耳が声を拾える距離まで来て聞こえた台詞。紛れもなくあの男の声だった。
村の入り口近くにいつもと変わらぬ犬夜叉の連れの面々がある。
半妖と女が二人、法師が一人にちっぽけな猫と狐の妖怪二匹。
その中の法師がどう見ても村娘の手を取って口説いている。
やがて女の一人が進み出て始まるいつものやりとり。
――くだらん。
お約束を最後まで見届けることなく、殺生丸は向きを変えた。
* * *
目的は同じなれど、旅の進路も仲間も違う二人の逢い引きの目印は“付近で一番高い木の下で”。
そんな大雑把な目印ゆえに会えないことの方が多いくらいなのだが、今宵は巡りあえた幸運な日だった。
昼間目星をつけていた村の近くにある森の、周りの木より背伸びしたように飛び出た梢頭。
その木の下に腰を下ろして待っていてくれはしたのだが。
「…あの、殺殿…?」
「……。」
無言の壁。
元々殺生丸の口数は多くないが、いつもに増してだんまりを決め込んでいる。
「俺…何かしましたか?」
前回会った時にも粗相はなかったはずだ。
近寄ることもできずに困惑する弥勒を一瞥することもせず、殺生丸は冷たく口を開いた。
「どこぞの女に子種でも仕込んできたか。」
身に覚えがないわけがない。
今までに口説いてきた女は数えきれない。
が、今殺生丸が言っているのはそのことではないような気がする。
そしてつい半日前の自分の行動を思い出して、さあっと弥勒の顔から血の気が引いた。
「も、もしや昼間の……見てました…?」
こわごわと訊ねてみても、案の定こっちを見もしない。
「あれは癖というか習慣というかお約束というか…」
しどろもどろになりながらも、件の娘とは何もなかったことを必死に弁解する。
「もうよい。」
殺生丸はそう言うものの、あまり動かない表情にはどこか浮かない雰囲気が漂っている。
よくよく見てみると、怒っている風ではなく、拗ねているという幼いものでもなく。
「やきもち焼く殺殿もかわい……ぎゃあ!!」
思わず本心を吐露すると、みなまで言わせずに妖力の鞭が足元をえぐった。
ろくにこちらを見もしないのだから大したものだ。
恐る恐る歩み寄り顔色をうかがってみると、今ので吹っ切れたのかもういつもと変わらないように見える。
ようやく殺生丸の隣に腰を下ろすことができた。
「本当に申し訳ない。あの癖はどうにも抜けなくて。」
「私といても子は生めんぞ。」
なげやりな口調の端に自分への気遣いが感じられたのは気のせいだろうか。
「そんなことは問題じゃないんです。」
男同士だとか、人間と妖怪だとか。そんな重要なことさえも愛しさの前に掻き消える。
そもそも子が欲しくて彼と会っているのではない。
手の平に穿たれた風穴。どんな形であれ、この呪いは自分の代で終わりにしようという気概はある。
しかし、いつしか限界がくることへの恐怖にかられ、本能のままに子種をばらまいてすべてを投げ出してしまいたくなることがある。
特にそんな時、無性に殺生丸に会いたくなる。己の強さを疑わず、故に揺るぎなく、誇り高く愛しい大妖怪に。
「あなたが傍にあることで、わたしがどれだけ救われていることか。」
「…そうか。」
殺生丸はそう言ったきりで、肩を抱き寄せる弥勒の手に抗わなかった。
どちらからともなく唇を寄せ合う。
合わせるだけにあきたらず、弥勒は舌を押し進めた。
恋仲になった当初はかたくなに歯を食い縛っていた殺生丸だったが、今では顎の力を抜いて受け入れるくらいの柔軟さは身につけていた。
予想外だったのは口付けをそのままに、覆い被さるようにして体を横たえさせてきたことだった。
「何の真似だ。」
「子作りの真似をと思いまして。」
「なんだと…」
あっけらかんとした物言いに殺生丸はいきり立つ。
「すみません、口が過ぎました。」
言葉とは裏腹に弥勒の目は熱をはらんで殺生丸を見る。
「ですが、交わりはなにも子を作るためだけではないはずです。」
頬をなでる指先が耳朶をかすめた刹那、殺生丸の睫毛が震えた。
そのまま首筋をなぞり、着物の合わせ目に手を滑り込ませる。
そこまでしておいて、弥勒は許可を求めるように殺生丸の顔をのぞきこんだ。
「……好きにしろ。」
特に拒む理由はないが、若干あきらめの境地にはある。
それにほんの少しの期待が入り混じった静かな高揚感。
「長い夜になりそうですな。」
弥勒と同じ事を殺生丸も思った。
2008/02/10