旅の途中の小休止。
森の中、殺生丸は大樹の根元に腰を落ち着け、邪見は阿吽の世話を焼いている。
そしてりんは、湧き出る泉の水面を鏡にして髪を整えていた。
その手の櫛は何かと入り用だろうと弥勒が贈ったもので、幼いといえやはり女の子。高価な品ではないがりんの宝物だった。
頭の横にひとつ尻尾をつくるのがりんのお気に入り。解けないようにしっかりと確認して、満足そうにうなずいた。
髪といえば、やはり殺生丸の長い髪が気になる。
別段手入れをしているような様子もないのに、初めて会ったあの日は別にして、ほつれて絡まっているのを見たことがない。
いつものごとく、その冷淡な顔ばせからは感情を読み取れない。
ただ、ほんの少しだけ誰かを待っているような雰囲気をまとっているのは気のせいだろうか。
――ま、いっか。
殺生丸の考えることは彼本人にしかわからないのだし、深く考えるのはやめにした。
自分はやりたいことをやるだけのこと。そう割り切って、りんは殺生丸に声をかけた。
「ねえ、殺生丸さま。」
近寄ってきたりんへの一瞥を返事代わりにして、殺生丸は言葉の先をうながす。
「りんのクシで殺生丸さまの髪、とかしてもいい?」
好奇心いっぱいの顔を向けられても殺生丸は動じない。
りんに髪をいじられた所で妖力が落ちるわけでもなし。それに断ったら断ったで後がうるさそうだ。
「…好きにしろ。」
殺生丸の言葉にりんはぱっと目を輝かせた。
恐る恐る一房手にとってみる。一緒に旅をしているとはいえ、こうして触れることなどめったにない。
つめたいけど、しなやかでやわらかい。
そっと櫛を通してみると、すんなりと髪の先まで通り抜けた。
「うわあ、すごいすごい!」
「こりゃ、りん! そんなに乱暴にしては御髪が痛んでしまうだろう!」
楽しくて何度も繰り返すものだから、見かねた邪見にたしなめられた。
「でも邪見さま、まるで水をすいているみたいなんだよ!」
邪見さまもどう?と勧めてくるが、恐れ多いと力いっぱい辞退する。
自分では気づいていないかもしれないが、どうにも殺生丸はりんに甘い。
どう扱ってよいか分からず、りんのするに任せているだけの可能性もあるが。
それでも殺生丸が良いというならそれで良しとしようと、釈然としないが納得しかけた所へ、
「おやおや、りんは詩人ですねぇ。」
弥勒がふらりとあらわれた。
「あ、法師さまだ。」
弥勒は挨拶がてら、にこやかにひらひらと手を振ってよこすが、振り返してくれるのがりんだけというのが寂しい。
殺生丸はこっちを見もしないし、邪見に至っては慳貪な目つきで弥勒をねめつけている。
ちなみに阿吽は気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「貴様は毎度毎度、殺生丸さまにつきまといよって!」
「てめえこそ折角の逢瀬の邪魔ばっかしてんじゃねえ!」
「なにを、この生臭坊主が!」
出会い頭から、いつもこんな調子だった。邪見を相手にするとつい地が出てしまう。
弥勒にとってはガミガミと口うるさい姑のような存在だった。りんのような小姑なら大歓迎なのだが。
「それにしても楽しそうですな。 わたしも混ぜてもらえませんか?」
コロッと一転して爽やかな笑みをたたえて許可をもとめる。
「貴様ごときが軽々しく…」
「殺生丸さま、法師さまもいい?」
邪見のわめき声を遮ってりんが言う。すると僅かに顎が引かれ、あっさりと許可がおりた。
では早速と、弥勒は櫛を取り出して殺生丸の左側に陣取った。右側ではりんがはしゃいでいる。
その光景は納得しかねるものがあるが、邪見はもうあきらめることにした。
りんと一緒になって梳る。人外の輝きを放つそれは絹のように滑らかで、羽毛のように軽い。
「おお、これはまさに流水の如し。 櫛をさえぎるものがありませんなぁ。」
りんの言葉を借りて感嘆する。
すると、弥勒がやってきてから初めて殺生丸が口を開いた。
「水に櫛を突き立てたてたとて面白くもあるまい。」
そんな釣れないことを言う。
けれどそれが殺生丸らしくもあって苦笑して、
「そりゃあ、水を相手に櫛を通してもつまらないでしょうが、殺殿の髪だからこそ楽しいのですよ。」
「ねー。」
殺生丸は楽しそうに両側でうなずき合う二人を流し見る。
そして良く分からんとでも言いたげに目を閉じた。
「そう、そうやって髪の流れに沿うように…。」
「こう?」
「上手いですよ、りん。 さすが女の子ですね。」
「えへへー」
髪が長い分だけ量も多く、長い間触れていられるのがうれしい。
弥勒が髪を結い上げ、うなじに口付けようとして殺生丸の鉄拳が顔面にめり込む一幕もあったが、和やかな雰囲気で髪いじりは続く。
二人に梳かれる度に髪から地肌に伝わる感覚がむず痒く、また心地よくもある。
こくりと、一瞬だけ殺生丸の頭が揺れた。
「殺殿、いま舟を漕ぎましたね?」
「……漕いでなどおらぬ。」
殺生丸はそう言うが、貴重なものを見ることができてつい弥勒の口元が緩む。
「? 殺生丸さま、お舟になんて乗ってないよ?」
「舟を漕ぐというのは…つまりはそういうことですよ。」
言葉の意味を説明するために、弥勒は邪見を指差す。
阿吽の眠りっぷりに触発されたのか、今日の暖かい陽気のせいか。阿吽の近くで寝こけていた。
ちゃっかり殺生丸の毛皮の隅に背を預けている。相当寝心地の良いことだろう。少々後が怖いが。
「あったかいもんね。 りんも寝よっと!」
りんは昼寝を決め込んで、遠慮なく殺生丸の毛皮に寄りかかった。
「無邪気なことですねぇ。」
朗らかに言いつつも、(りんが寝たら殺殿と…)と邪気まみれなことを考えていたりする。
そんなことを考えていた弥勒も、しばらくすると陽気と睡魔に負け、殺生丸の肩にもたれかかっていた。
近くには害になるような妖怪も獣もいないらしい。
――……くだらん。
両側から聞こえてくる寝息を聞きながら、殺生丸は目を閉じた。
2008/06/22