十六夜月と新月の、ちょうど真ん中くらいの月夜の晩。
おふくろが死んだ日に、あいつと初めて会ったんだ。
* * *
彼女の死を確認すると、二人の世話を命じられていた女中は黙って部屋を出た。
犬夜叉もそれを追うでもなく、見向きもせず母の枕元に座したまま動こうとしない。
本当はすぐにでも物言わぬ十六夜の胸にすがり付いてしまいたかったが、誰かの前で泣きべそをかいてたまるかと、幼いながらに意地を持っていた。
そんな犬夜叉を可愛げのない子供だと一瞥して、女中は十六夜の親類である主に報告するため、離れを後にした。
「…ははうえ…」
足音が聞こえなくなってから、そっと呼びかけてみた。
けれど、常ならば愛しげに見つめてくる瞳も、優しく頭を撫ぜる手も、ぴくりとも動かない。
鼻の奥がつんと痛くなった。
水桶に顔を突っ込んだように目の前がぐにゃぐにゃと揺れる。
ちっぽけな意地をかなぐり捨てて、母の胸に取りすがった。
そして、一人のこどもになって、泣いた。
人間の女がいる間、物陰にかくれていた冥加がおずおずと顔をだした。
声を張り上げて泣く主の忘れ形見に小さな胸を痛める。
主亡き後、なにかと彼ら母子を見守り、時には助言もほどこしてきた。
それはこれからも変わらぬだろうと決意を新たにする。
しゃくり上げる犬夜叉の肩に飛び乗る。少しは落ち着きを取り戻したらしいが、どう声をかけたものかと言葉を詰まらせた。
ひとまず慰めの言葉をかけようと口を開きかけて、突如として近づいてくる妖気の大きさに身を竦ませた。そしてその覚えのある気配に驚愕して肩から転げ落ちた。
不意に月明かりが遮られて、犬夜叉の視界に影が差した。
顔を上げると目に入った障子に人影がうつる。
人間じゃない。即座にそう認識すると同時に、音もなく障子が引かれた。
「殺生丸様!!」
冥加の叫びに、泣きはらした目をまん丸にして驚いた。
長い白銀の髪。白い面に浮かぶ、紅い隈取と額の蒼月。
月を背にした逆光の中で、金色の瞳が光を放つかのように輝いて見えた。
彼が話には聞いていた“異母兄”。
初めて会った兄はいけ好かない貴族の娘なんかよりもずっと美しく、犬夜叉が目にしてきた誰よりも強く鋭い眼差しを持っていた。
今目の前にいるのが自分の兄だというのか。
そしてこれが、完全なる妖怪にして、“大妖怪”と呼ばれる存在なのか。
「選べ、犬夜叉。」
低く、落ち着いた声音が耳に良く通る。
「妖怪として生きるのか、人間として生きるのか。」
突然のことに何も言えずにいる犬夜叉にかまわず、殺生丸は決断を強いた。
「今すぐに決めろとは、少々酷というものですぞ殺生丸様!」
尚早な殺生丸に冥加が異をとなえた。
殺生丸は今気付いたわけではあるまいに、ここにきてようやく冥加に目をむけて、
「貴様には耳がついていないと見える。」
それだけ言うと、返事を催促するかのように犬夜叉に視線を戻した。
わずかに込められた怒気に寿命を縮めながら、冥加は耳を澄ました。
本殿から幾人もの荒っぽい足音が聞こえてくる。
『殺せ!』
『汚らわしい半妖めが』
『十六夜様亡き今、生かしておく理由はない!』
『殺してしまえ!!』
口々に罵る男たちの声に混じって刀の鍔が鳴るのを聞いて、冥加は青ざめた顔を犬夜叉に向けて黙り込んだ。
当の犬夜叉には、周りの雑音など耳に入っていなかった。
瞬きもなく見つめてくる鮮烈な瞳を真っ直ぐに見上げて、呟いた。
「あんたと、いたい。」
幼い半妖の目に、冥加のほかに初めて見るこの大妖怪はあまりにも眩しく見えた。
まるで盲いたように他の選択など見当たらなかった。
「おれはあんたと…兄上といきたい!」
「そうか。ならば、来い。」
犬夜叉のはっきりとした意思表示にさしたる関心を動かすこともなく、それだけ言って殺生丸は背を向けた。
そんなぶっきら棒な兄を、犬夜叉は遠慮がちに呼び止める。
「一つ…たのみがあるんだ。」
* * *
殺生丸が空へ舞い上がろうとすると、部屋に押し入ろうとした人間と鉢合わせた。
人間は白い異形の妖怪に度肝を抜かれ、その小脇に抱えるものに腰を抜かした。
殺生丸は人間には目もくれず、ふわりと宙へ浮き上がった。
「よ…妖怪だ!」
「妖怪が十六夜様の亡骸を…!!」
人間の怒号と喧騒が遠くなると、地上の虫の声も届かず、風を切る音だけがまとわりつく。
振り返ってみると犬夜叉の過ごした館は夜闇に紛れ、かがり火だけが星のように遠く小さく見える。
兄の豊かな毛皮でぐるぐる巻きにされて、犬夜叉は初めて空を飛ぶ感覚を味わっていた。
「穴は自分で掘れ。」
「…うん、わかった。」
母の墓をつくりたいという願いを、殺生丸は聞き届けた。
殺生丸にとっては、それを最後に人間との関わりを断たせるための打算でしかないが、それは犬夜叉の知るところではない。
ほとんど表情の動かない兄の横顔は、冷たく美しい。
この妖怪のことを、もっと知りたいと思った。
それはどこか一目惚れという恋に似て、しかしその感情をまだ幼い犬夜叉は知る由もない。
殺生丸の腕に抱えられた十六夜を見て、犬夜叉は唇をかみしめた。
冷たい風に顔を叩かれて乾いた目から涙があふれる。
月の光を反射して、涙の粒が風に切られて落ちていった。
2007/03/03