犬夜叉

かくれんぼ


「へっ…ざまーみろ…ってんだ……」
 肩で大きく息をしながら、犬夜叉は途切れ途切れに口を開いた。
 犬夜叉を食おうとした鬼は上半身と下半身を両断されてピクリとも動かない。
 馬鹿力だけが取り柄で、再生能力の類も持たないらしかった。
 犬夜叉の放った散魂鉄爪は、一度目は不発で鬼の肌を引っ掻いて逆上させたに留まり、二度目は空振りに終わった。
 三度目にようやく鬼の腹を引き裂いたのだった。
「ちぇっ、これじゃあ未熟者がーってにらまれちまうな。」
 そう唇を尖らせるが、その兄上を捜しにきたのだと思いだす。
 しかし辺りに散った血と肉片の臭いが邪魔をして、この辺りにあったはずの殺生丸の匂いが見当たらない。
 においは見るものではないという殺生丸の言葉を思い出し、犬夜叉は目を閉じて鼻先に集中した。
「あった!」
 やはり基本は大事だと実感する。
 鬼との戦闘になった所より少し離れた個所に匂いの続きがあった。
 その方角へ足を向けようとして思いとどまり、川の方へ身を転じた。
「血の臭いは他の妖怪をよせつけるんだよな。 よし、覚えてる。」
 小川の清水で返り血を落としながらひとりごちる。
 殺生丸が施す助言はやはり彼の経験からくるものなのだろうか。
 昨日の助言のことを考えていて殺生丸の舌の感触まで思い出してしまい、犬夜叉は顔を赤らめた。
 血が滲んでいた爪はすっかり治っていて、他にできた新たな傷もない。
 犬夜叉は爪の付け根を一舐めするとぐっと拳を固め、殺生丸の匂いを追うことに集中した。

 期限のことは何も言わなかったが、当然早いに越したことはないだろう。
 そうは思うのだが、時間は刻々と過ぎていき、梢の隙間から見える空は茜色に染まっていった。
 殺生丸の匂いが不意に弱くなったのはその時だった。異変に気づいて慌てて匂いを辿り直そうとする。
 兄に何かあったのか心配になったが、原因に気がついて犬夜叉の顔から血の気が引いた。

 ――そうだ、今日は朔の日じゃないか…!

 館の中にいるのならともかく、こんな森の中で人間の姿になってしまえば命はない。
 現に妖力が弱まったことを嗅ぎつけた妖怪がこちらを窺っている気配がする。
 それでも直前まで追っていた匂いはここへきて強くなっていた。この近くなのは間違いない。
 まだ鼻は利く。まだ捜せる。
 犬夜叉は行ける所まで行くしかないと腹をくくって先を急いだ。
 せめてこのまま太陽が動きを止めてしまえばいいと思わずにはいられない。
 しかしそんな願いも空しく太陽は常と変わらず沈んでいく。
 そしてついにその瞬間がきてしまった。
 空の色はすっかり赤みを消し、夕日は無情にも山の向こうへ姿を隠してしまった。
 途端に鼻が利かなくなり、犬夜叉は足を止めた。
 夜目の利かない視界にかざした手に鋭い爪はない。髪は真っ黒だ。
 月の無い夜の始まり。
 彼の妖怪としての血は鳴りを潜め、今ここにいるのはか弱い人間の子供だった。
 後をつけてきた妖怪の呻きが人間の耳にも近くに聞こえる。
 逃げようにも足が竦んで動けず、そうでなくとも普段の敏捷さも失われている。
 朔の夜の本当の恐ろしさを身をもって体感していた。

 ――ちくしょう……月はどこに行っちまったんだ……。

 姿の見えない月を恨み、天空を睨みつけた。


 見上げた先に、とうに過ぎたはずの二十三夜の蒼月を見つけた。


「……見つけた。 兄上」
 犬夜叉が呟くと同時に、張り出した枝に腰掛けた殺生丸は内に秘めていた気配と妖力を解き放った。
 それは人間の犬夜叉がたじろぐほどの存在感で、後をつけてきた妖怪はそれだけで蜘蛛の子を散らすように追い払われてしまった。
「…すごい…」
 そう素直に感嘆するしかない犬夜叉を高みから見下ろし、殺生丸は半日ぶりに口を開いた。
「待ち草臥れたぞ、虚け者が。」
 その時彼は笑みを浮かべていた。
 慈しむような優しさは感じられないが、確かにその唇はほのかに微笑を形作っていた。
 それは犬夜叉が初めてみる殺生丸の笑みだった。
 だしぬけに見せられて胸が高鳴るが、その照れをごまかすように強がって言い返す。
「い…いいだろ、ちゃんと見つけたんだから!」
 殺生丸はわあわあまくし立てる犬夜叉の前に降り立つと、くしゃりと黒い頭に左手を置いた。
 突然ではあるがごく自然にされたことに、犬夜叉は今度は目を点にして撫ぜられるにまかせた。
「呆けておらずに火を起こせ。」
 そう言うと殺生丸は手を離してしまった。
 名残惜しく思い、犬夜叉は夢見心地で撫でられた頭に手を置いている。
「どうした、妖怪なら近くにおらぬ。 ……それともやり方を忘れたとでも。」
「わ、忘れちゃいねえよ!」
 殺生丸の声に現実に引き戻され、犬夜叉は薪になりそうな枝を探しに走った。
 もうここは館からそうとう離れており、この場所に宿をとるのだろう。
 殺生丸ならばさっさと館に帰ることもできるのだろうが、先ほどの木の根元に腰を落ちつけており、そのつもりはないようだ。
 その前面は邪魔になる木の根も藪もなく、なるほど野宿するにはもってこいだった。
 月の無い暗い夜、犬夜叉がどうにか起こした焚き火を囲んで夕食をとっていた。
 献立は薪を集めるついでに近くの川で獲った魚だった。
 近くに水場があるのを見るに、初めから犬夜叉に野宿を経験させるつもりだったらしい。
 と言っても、食べているのは犬夜叉だけで、殺生丸は坐したまま動かない。
 魚にかぶり付きながら、対面の殺生丸の方をちらちらとうかがう。
 本当に何を食べて生きているのかも不思議だが、それ以上に興味があるのが腰の刀だった。
 犬夜叉は剣術を習ってはいるが刀は持っていない。
 子供心に欲しいと思うのだが、まだ早いと一蹴されるのが関の山だろう。
 殺生丸はいつも同じ刀を腰に佩いているが、それを抜くのを見たことがない。
 何度か戦う姿を見たが、爪でなぎ払うだけだった。それはそれで凄いことなのだが。
 どんな刀なのか聞いてみたいのだが、何故だか聞けないでいる。
 その刀を見る殺生丸の瞳が、時折切なげに揺らいでいることを知ってしまったからだろうか。

 夕食が終ってすることもなくなり、今度はじっと殺生丸を眺めた。
 その不躾な視線にも慣れたように動じず、瞑想するかように寡黙を貫いている。
 頬に落ちた長い睫毛の影が焚火に揺らめいているのを、飽きることなく見つめていた。
「犬夜叉」
 目を閉じたまま口だけを動かした殺生丸に呼びかけられ、犬夜叉はうつらうつらしていた意識を取り戻した。
「朔の晩のこと、決して余人に気取られるな。」
「えっと…わざわざ弱点をさらす必要はないってこと?」
「そういうことだ。」
 殺生丸がすっと犬夜叉の方に向けて手を上げたのを見て目を見開いた。
 それは殺生丸が妖力の鞭を繰り出すときの動作だったからだ。
 犬夜叉が声を上げる暇もなく、光の鞭が脇をかすめて激しく地面を叩いた。
「去れ。」
 その言葉が自分に向けられたものと錯覚して犬夜叉は体を強張らせた。
 しかしガサガサと藪を掻き分ける音と、口惜しそうな妖怪の唸り声が遠ざかっていくのが聞こえ、別の意味でまた体が硬直する。
 恐る恐る振り返ってみても、もう暗い森が広がっているだけで何もなかった。
 背後の、鞭にえぐられた地面以外は。
「死にたくなくば、その姿の時は気を抜かぬことだ。」
 緊張が解けると、鬼に襲われたのと同じ種類の冷や汗が噴き出てきた。
 同時に出てきそうになってこらえた安堵の涙は、それとはまた別の種類ものだった。
 それでも、先程の言葉が自分に向けられたのではないという証がほしくて、犬夜叉はのそのそと殺生丸の隣に移動する。
 隣に座ってもいいかと問いかける代わりに顔を覗き込んで、特に表情が変わらないのを是と取って腰をおろした。
 せっかくなのでふかふかの毛皮にもたれかかってみる。
 温かで、柔らかくて、とてもいい匂いがする。

 ――兄上の匂い……。


 考え事をしていた殺生丸の耳に小さな寝息が聞こえてきて、思考を中断させた。
 隣を見てみると犬夜叉が気持ちよさそうに眠りに落ちていた。
 気を抜くなと言ったばかりなのに、この無防備な様はどうしたものかと溜息をつく。
 先程まで考えていたこと。
 殺生丸が犬夜叉に稽古をつけるのは半妖であるとはいえ父の子であるからだ。
 犬夜叉は自分と来ると言った。それは妖怪として生きることと同義。
 しかし半妖としての血はどうすることもできない。
 一族に迎え入れるのは難しいだろうし、一人で生きてゆくにしてもも枷となる。
 ならば父の血を辱めることがないよう叩き込むまでのことだ。
 闘牙王の血を示し、木端共の痴れ言を緘するような力を見せつけてやればよい。
 それについてこれないのならそれまでのこと。
 そして、それだけのはずだった。
 ならば何故自分は犬夜叉の頭を撫ぜるような真似をしたのか。
 自分がそうされことなど、それこそ幼い頃母にしてもらったかさえ覚えていないというのに。
 殺生丸が幼い頃、父の闘牙王は戦に明け暮れ、殺生丸と過ごしたことなどなかった。
 しかしそのことを恨みに思ったことなどは一度もない。
 誰に言われたわけでもなく、物心ついた時から殺生丸にとって父は絶対的なものだった。
 初陣を果たす許しが出ずに意向に逆らったこともあるが、それはひとえに父の名を汚したくないという一心でのことだ。
 今思えば、あの一件が希薄だった父との関係に繋がりができた瞬間だったのかもしれない。
 まさかあのような関係になろうとは夢にも思わなかったが。
 極々稀に手合わせをすることはあっても、殺生丸はついぞ父からものを習うことがなかった。
 それでも、もしも父が稽古をつけてくれたのなら、同じようにしてくれたのだろうか。


「……くだらん。」
 自分の思考に驚きつつ頭を振った。
 隣では犬夜叉が先程と変わらず寝こけている。
「……人間の姿では、病の気を呼び易いと聞く。」
 誰に言うでもなく呟くと、膝の上に抱き上げて毛皮で包み込んだ。


* * *


 夢を見ていた。
 大きな大きな、顔も知らない化け犬の姿をした父親の尾にくるまれる夢をみた。
 白くて、とても暖かくて……。
 目を開くと目の前にやはりそれがあった。
「なんだ、まだ夢ん中か……。」
 だったら遠慮はいらぬと犬夜叉はそのふわふわの毛皮にしがみつく。
 でも、さっきまではこんなにいい匂いがしていただろうか。
「目が覚めたのなら寝惚けるな。」
 匂いの正体に気がつくのと、殺生丸の声が真後ろから聞こえたのは同時だった。
「あ、兄上!」
 慌てて飛び起きるてみると、太陽が辺りを白く照らし始めていた。
 髪はすっかり白いし、耳も爪も元に戻っている。
 昨日、気を抜くなと言われたばかりなのを思い出してさっと青ざめた。
 殺生丸を失望させてしまっただろうかと心配になったが、彼は特に何も言わず立ち上がっただけだった。
 自分が一晩中殺生丸の膝の上にいたのだと今更ながら気がつく。
 その上、恐らくは風邪をひかぬようにと、己の毛皮をかぶせてまでくれた。
 だからあんな夢をみたのだろう。

 ―――なんか、昨日から兄上がやさしい……。

 心が暖かなもので満ちていくのを感じていると、「犬夜叉」と声をかけられて我に返る。
 しかし殺生丸が告げたのはとんでもない言葉だった。
「館まで一人で戻れ。」
「……は?」
 その口調は昨日のこの時間に言われたものと同じだった。
「も、もしかして……訓練?」
 ひょっとしたら犬夜叉が初めて聞く兄の冗談なのかもしれないと淡い期待を抱いてみたが、
「そうだ。」
 あっけなく打ち砕かれた。
 殺生丸はそれ以上言うべきことはないようで、ふわりと宙に浮きあがると一気に上空へ飛びあがる。
 雲に隠れるほどに高いところまで昇ると、それっきり見えなくなった。
 匂いを追わせる気もなければ、館の方角すら自分で見つけろということらしい。
 大きな妖力が消えて小さな妖力が残されたのを嗅ぎつけ、妖怪が集まってくる。
 昨夜は殺生丸がいたためにねぐらから外にでられず、皆腹を空かせていることだろう。

「ぜ……前言撤回だチクショー!!!」

 爽やかな朝の日差しが差し込む中、犬夜叉の絶叫が木霊する。
 その間にも妖怪の気配がにじり寄ってくるのを、否応なしに鼻や耳が感じ取っていた。
 優しいと思われた兄はいつもの殺生丸だった。



2009/03/28兄上の教育はスパルタです。

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