犬夜叉

かくれんぼ


 十六夜の弔いをしたあとに犬夜叉が連れられてきたのは、深い森の中にある館だった。
 その敷地の大きさときたら、今まで住まっていた人間の貴族の邸宅に負けず劣らずの規模だった。
 にもかかわらず、そこに住んでいるのは管理をまかされているという年老いた小妖怪一匹だけ。
 犬夜叉の世話係も担うその老妖怪が言うには、この館は先代の私的な別邸であるそうだ。
 先代、つまり犬夜叉の父はこの世を去ったものの、未だ彼の威光は恐れられ、この界隈に近寄る妖怪も滅多にいないほどだという。
 もとよりこの深き森の中に足を踏み入れる人間などいるはずもなく、人影はまったくない。
 世話役の老妖怪とも最低限の言葉しか交わさないが、犬夜叉はそれを苦とは思わなかった。
 たびたび冥加は顔を見せにきたし、元々彼の話し相手は母の十六夜しかいなかったのだ。
 それが極端に口数の少ない相手になっただけのこと。
 その相手というのが、他でもない殺生丸だった。
 彼は館に逗留することもあれば、犬夜叉の前に姿を見せない日もある。
 邪見と呼ぶお付きの小妖怪を伴うこともあれば、誰も連れていない日もあった。
 犬夜叉にしてみればぶつくさと小うるさい邪見には会いたくないというのが本音ではあるが。

 随分とつかみにくい兄ではあるが、彼が館に留まる日には犬夜叉に様々な稽古をつけた。
 爪や剣の振り方、困らぬ程度の読み書き、露宿の際の要点、草や実の知識、天体の動き。
 おおよそ外界で、妖怪として一人生きていくための術はみな彼に叩き込まれた。
 ただ犬夜叉ときたら、殺生丸が筆を走らせる指先を見てはそれに見惚れ、天文を習えば星ではなく彼のかんばせに目を奪われて、その度に「どこを見ている」と呆れさせていたのだが。
 手取り足取り事細かに口添えするような教え方ではなかったし、剣の鍛練ではいつだって叩きのめされた。
 殺生丸自身誰かにものを教えたことも乞うたこともないため、加減を知らないというのもあるが。
 子供相手だからと手加減はしないが、剣をはじくにとどめるのは彼なりに自制してのことだろう。
 稽古は木刀で行うが、それも殺生丸が振るえば真剣にも匹敵するような迫力がある。
 その力強さも計り知れず、犬夜叉は何度も転ばされた。
 肩で息をする様を見ても殺生丸は眉一つ動かさずにただ一言「立て」と促すだけだ。
 それでも、
「戦いの最中に得物を落とすは愚の骨頂。
 立て、地に伏せばそれだけ相手の利に繋がる。覚えておけ。」
 たまの助言はいつも的確なものだった。

 匂いの追い方も彼に教わった。
 香料を含ませた墨で印をつけた石を殺生丸が投げ、それを犬夜叉が追うといった寸法だ。
 あの細身に見える体躯のどこにそんな力があるのか、犬夜叉が見つけ出すごとにその距離は増していく。
 草木が青々と茂る森の中、こぶし大の石を見つけるのは容易ではない。
 まずは目を閉じて目的の匂いを一つに絞ることから始め、複数の匂いを嗅ぎ分けることを覚えた。
 目や耳の情報とあわせて鼻で状況を把握するにはそれができなければ話にならない。
「ただし、強すぎる臭気には用心せよ。 下手をすると目を回すことになる。」
「ぶあっ! くさっ!!」
 そんな助言を施す時は自分だけ袖で鼻を覆っていて、目の前にある葉のカメムシに気づかなかった犬夜叉だけが鼻をつまむはめになるのだった。
 めげずに目星をつけた草むらを掻き分けると、
「これだろ、兄上が投げた石!」
 拾い上げてみると間違いなく墨でつけた印があった。
 それを殺生丸に見せると彼はうなずいて、
「探し当てるのが早くなったな。」
 いつも通り表情は変えないながら、犬夜叉に言葉をかける。
 それが嬉しくてたまらないのだ。

 ――わかるさ。 だって兄上のにおいがするんだから。

 そのとき兄は「次はもっと遠くに投げようか」と厳しいことを考えているのだが。


* * *


 そういう暮らしが続き、いくらか経ったころ。
 犬夜叉は館の裏手で一人、木を相手に爪を振るっていた。
「散魂鉄爪!!」
 木の脇を通り過ぎざま、妖力を集中させた爪を振るう。木肌にすっと幾筋もの線が通る。
 犬夜叉が振り向くころには、その線が割れてずしんと幹を横たえていた。
「や…やった!」
 今までは木の表皮に傷をつけるのが精一杯で、この技が成功したのは初めてだった。
 初めて感じた確かな手ごたえを噛みしめていると後ろから声がかかった。
「大分爪を使えるようになったな。」
 僅かではあるが語気に満足気なものを感じて犬夜叉の心が躍る。
 しかし殺生丸は犬夜叉の指先を見咎めて眉根を寄せた。
「兄上……?」
 訝しげに見上げてくる犬夜叉に構わず、殺生丸は犬夜叉の手を取った。
 そして酷使して血の滲んだ指先をぺろりと一舐めすると、
「爪は傷つけるな。 いざと言う時使えないとあっては意味を成さぬ。」
 血のにおいは他の妖怪を寄せ付けるとも付け加える。
 必要なことだけ忠告すると、
「明日、調練をつける。忘れるな。」
 去り際に言葉少なく言い置いて、いつも通りさっさと犬夜叉に背を向けて館へ戻っていった。
 一人残された犬夜叉はしばらくぼうっとしていた。
 爪から滲む血を舐めとられた感触。その時に走ったぞくりとした感覚。
 こんな傷など、妖怪ならば一晩放っておけば治ってしまうようなものだ。
「……明日までに治しておかないとな。」
 誰に言うでもなく呟くと、指先の傷ををそっと舐め上げた。


 翌日の早朝、太陽が昇ってすぐの時刻。犬夜叉と殺生丸は館を出て森の中にいた。
 そこは匂いを追う訓練の出発地点でもある所だった。
 投げられた石を見つけるくらいならもう問題なくできるようになっている。
 それでもまた石を投げるのかとたずねてみると、
「私を探せ。」
 思ってもみないことを返された。
 顔に困惑の色を浮かべる犬夜叉に構わず、殺生丸はどんどん話を進める。
「降りかかる火の粉は自分で払え、私は関知せぬ。」
 殺生丸自身が石の役をするのだとようやく覚り、犬夜叉はたずねかけた。
「どのくらいしたら探しに行けばいいの?」
「今すぐだ。」
 短く答えると、殺生丸は地面を蹴ってあっという間に森の奥へと消えてしまった。
 余りにあっけなくいなくなってしまったので、犬夜叉は昨日のように呆然と立ち尽くしていた。
 深い森の中の更に奥、そこは秘境といっても差支えない。
 彼が共にある時はほとんど近寄ってこないが、そこに住まう妖怪はあまり理性的でなく凶暴な輩が多い。
 殺生丸が自分を試しているのだと思い至り、にわかに我に返ると気合を入れる。
 匂いを追い、敵を打ち倒して捜し出すことができるか、教えたことが身についているかをはかる試練なのだ。
「かくれんぼってわけかよ、やってやらあ!」
 威勢良く殺生丸の後を追って森の奥へ足を踏み入れた。

 殺生丸の匂い追ってみると、地表を徒歩で移動しているらしいことがわかった。
 彼が投石するよりもさらに遠く、森の奥へ匂いが続いている。
 それだけでなく、わざとつけられたらしい足跡など、追ってこいと言うように殺生丸が通った痕跡が僅かな示唆として残されていた。
 匂いが途切れたと思えば川の対岸に渡っていたり、気まぐれのように枝に飛び移っていたりするから一筋縄ではいかない。
 藪をくぐり、川を飛び越え、斜面を飛び降り、時には高い木の上からあたりを見回してみたりもした。
 そうやって追いかけていくうちに、太陽はどんどん高くなる。
 間抜けにも腹の虫が鳴いて、犬夜叉は足を止めた。そういえば朝食も食べていなかった。
 何かないかと首を巡らせると、見覚えのある実が目に入った。
「あれはこの間おそわった食えるやつだ。」
 いくつか失敬して手近な木の根元に腰を下ろし、かぶりつく。
 まだ少し若くて渋いが、腹を下すほどでもないだろうし、この際文句は言えない。
 そういえば、自分は肉も魚もネギだって平気で食うが、殺生丸は普段何を食べているのだろう。
 一緒に暮らしていて兄がものを口にしているのを見たことがない。
 まさか霞を食らって生きているわけでもあるまいが、否定もできないのが彼の神秘性のなせる業か。
 実を頬張りながらそんなことを考えていて、先ほどからじりじりと忍び寄ってくる影に気がつくのが遅れた。
 犬夜叉が察した時には、そいつは腰を下ろした木の真後ろにいた。
 低い咆哮をあげ、その木ごと犬夜叉を血祭りにあげんと腕を振り降ろしてきた。
 辛うじてかわしたが、木は見るも無残になぎ倒され、冷汗が噴き出る。
 食うのに夢中で気がつかなかったなどと殺生丸に知れた日には、虚け者がと凍りつくような眼で睨まれるに違いない。
 犬夜叉を襲ったのは鬼だった。筋骨隆々としていて肌は浅黒く、人間の大人よりも二回りは大きい。
 腹を空かせている様子のそいつは頭はそれ程良くないらしいが、筋力だけはあるようだった。
 犬夜叉を食ってやろうと拳を繰り出し、鋭く伸びた爪を振るってくる。
 まだ殺生丸の肩にも届かぬ背丈の犬夜叉には、その単調な攻撃さえも脅威だった。
 持ち前のすばしっこさを武器に頭上から降り注ぐ攻撃をどうにかかわしていく。
 避けているだけではどうしようもないとは分かっているが、恐怖に頭が混乱してしまう。
 ここに来るまでに格下の妖怪と戦いはしたが、あんなものは話にもならない。
 命の遣り取り。
 いや、目の前のそいつから見れば餌でしかない。
 その恐怖に一瞬足がすくみ、振り上げた鬼の腕が犬夜叉を殴り飛ばした。
 叩きつけられたのは柔らかい土の上だったが、拳を当てられた脇腹が痛んでうずくまった。
 このままこいつに食われるのか。絶望に奥歯が鳴ってぎゅっと目をつむる。

『立て。』

 いつか聞いた殺生丸の声が蘇る。
 そうだ、忘れたのか。このまま寝ていたらあいつの思うつぼだ。
「忘れちゃ…いねえよ!」
 奥歯を噛みしめ、ありったけの力で身を起こす。大丈夫だ、どこも骨は折れていない。
 犬夜叉が飛びずさると、彼の頭を砕こうと振り下ろされた握り拳が地面をえぐった。
 殺生丸はこういう状況を打開するために戦う術を教えたはずだ。
 そして自分は、何のためにそれを学んだんだ。
「おいそれとてめえの昼飯になるわけにはいかねえんだ!
 食らいやがれ、散魂鉄爪!!」
 殺生丸の声を思い出した時から、もう犬夜叉の震えはおさまっていた。


 初めて会ったときに抱いた想いは、未だ色あせることなく刻みついている。

 ――俺は、あんたのそばにいたいんだ。

 彼のことを知りたいと思う以上に、その思いは日に日に強くなっていく。
 それは犬夜叉本人にもどうすることもできない感情だった。



後半へ→

2009/03/28長くなったので分割。後半に続きます。

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