犬夜叉

一日の戯れ


 まだ夜の明けきらぬ刻限に七宝は目を覚ました。
「きのう昼寝をしたせいかのう」
 伸びをしながら隣を見ると、朝の早い楓もいまだ夢の中。
 犬夜叉たちが久しぶりに楓の村に帰ってきた理由はかごめの“てすと”のためだった。
 謝り倒すかごめと悪態をつく犬夜叉が井戸の向こうへ消え、残された三人は村の手伝いをしていた。
 手伝いに飽きた七宝は抜け出して昼寝に興じていたが、その間に弥勒と珊瑚は雲母を伴って情報収集に出てしまい置いてきぼりをくってしまったのだった。
「まったく薄情なやつらじゃ!」
 楓によると何度も起こしたそうなのだがさっぱり記憶にない。
 夕方近くまで昼寝をして、夜はふて寝で無理やり寝てしまったせいで、寝直す気にならないほど目がさえてしまっている。
 外に出てみても雀の声すら聞こえない。
 手持無沙汰にかごめが帰ってきやしないかと骨喰いの井戸に行ってみるも、井戸の底は真っ暗だった。
 今頃彼女は机に向かって必死に睡魔と格闘しているはずで、まだ会えないだろうとは七宝も分かっていた。
 こんな時刻に弥勒たちが戻ってくるとも思えない。
 井戸の縁に腰掛け、物寂しさをごまかすように大きなため息をついた。
 このまま井戸に飛び込んでかごめの世界に行けたらどんなに良いことか。
 そこで七宝ははて、と首をかしげた。
 かごめは未来から過去へやってきた。ということは、自分ならここより過去へ行くことになるのだろうか。
 けれど犬夜叉はかごめと同じ時代へ行っているらしい。
「うーん………わからん」
 どうせ考えても答えは出ないと早々に疑問を投げ出した。
 とにかく、
「たいくつじゃー…」
 その一言に尽きる。
 見上げた空はまだまだ星が見えるほどに暗く、それでも夜明けが近いのか三日月と逆を向いた月が浮かんでいた。

 ふいに水の揺らめく音が聞こえた。
 耳を澄ますまでもなかった、音の源は目の前にあったのだから。
「な、なんじゃ!? この井戸は涸れとるはずじゃろ」
 ほんの一瞬目を離した間に井戸の底のほうに水が満ちていた。
 目の錯覚でもなんでもなく、井戸へ仄かに入り込んだ月光を水面が反射させてきらめいている。
 どういう訳かと七宝は身を乗り出し、そして乗り出しすぎて井戸の中へと転げ落ちた。


* * *


 水中でもがきながら、井戸の壁面に取りつこうと手を伸ばして空振りに終わった。
 大して広くも深くもないはずなのに上がどの方向なのかすらわからない。
 死にもの狂いでもがいていると何者かに腕を掴まれて、力強く引っ張られた。


 目一杯息を吐き出して激しく咳き込んだ。
「狐か」
 自分の咳の合間にそんな声が聞こえ、水の中から抜け出したのだとようやく気付いて目を開いた。
 水から出たばかりで霞む目を瞬かせ、脇の下に手を入れられて抱え上げられているのだとわかる。
 その腕の主と目が合って七宝は思わず言葉を失った。
「狐、おまえどこからきた」
 そんなことを問うてきたのは、意外と面食いな七宝が見とれるほどに美しい妖怪の子供だった。
 六つか七つの七宝と同じ年頃で、姿形こそ人のものだが、身に纏う色彩は一目見て妖怪なのだと悟らせるに足るものだった。
「どうした、口がきけぬのか」
 赤面して言葉が出ない七宝を金色の瞳で不思議そうに見つめてくる。
 言葉が出ないのもそのはずで、立ち泳ぎの形でみなもを揺蕩う相手は一糸纏わぬ姿なのだった。

 そこで初めて周りの景色に目をやって、七宝は驚きに目を見開いた。
 自分たちは湖の真ん中に浮いていた。
 湖は森に囲まれ、その向こうに知らない形の山が見える。
「い…井戸は? おら、井戸に落ちて…」
 混乱する頭でようやくそれだけ絞り出すが、
「なんの話だ? おまえはいきなり水の中にあらわれたぞ」
 そんなことを言われてますます頭がこんがらがってしまう。
 相手は七宝の戸惑いなどお構いなしに水柱を立てて跳躍し、音もなく水面に降り立ってみせた。
 そのまま小脇に七宝を抱え、まるで草原にいるような足取りで岸辺に向かって歩き出す。
 それだけでも並々ならぬ妖怪だということを窺わせた。
 白いつま先が水面に触れるたびに波紋が広がるのに心を奪われ、思わず足の付け根が目に入ってしまい顔をそらした。
 が、違和を覚えて横目でうかがってみて、七宝はがっくりと肩を落とした。
 見慣れたものがついていた。
「おらのときめきを返せ……」
 力なくつぶやいた。

「おまえはこの界隈の妖怪ではないな」
 七宝を岸に降ろすや否やそう問いかけてくる。
「おらはここがどこなのかもわからん。なんでわかるんじゃ?」
 恋心を打ち砕かれ、力が抜けた分だけ落ち着きを取り戻して七宝はたずねかけた。
 ついでに相手も男なのだから遠慮なく濡れた着物を脱いでしまう。
 横手を見ると、近くの岩の上に相手のものらしき着物が脱ぎ散らかしてあった。
「このあたりの妖怪はせつの顔を見るや、おののいて逃げ出すからな」
 なにやら彼は有名人で、においから察するに犬の妖怪らしい。
 そういえば犬夜叉のにおいに似ているような、いないような。
 ふと彼の言葉に引っかかりを感じて問い返した。
「せつ?」
「せつの……」
 相手は一瞬しまったという表情をして口ごもった。
 意識しないと子供っぽい一人称が出てしまうらしい。
 冷淡な雰囲気の美貌に気後れしていたところにようやく親近感が湧いたが、
「わたしの名だ。 殺生丸という」
 その名前を聞いて思わず着物を絞る手が止まる。
 どこか覚えのあるにおい。犬夜叉と似ているようで少し違うそれは殺生丸のものではなかったか。
「……どうした」
 怪訝そうな顔で声をかけられて七宝は我に返った。
「あ…いや、良く似たやつを知っとるから驚いたんじゃ。名前も同じだがそいつは大人じゃ」
 自分を納得させるように答えると興味を引いたようで、話をせがまれる。
「どんな妖怪だ。くわしく話せ」
「ものすごくおっかない化け犬の妖怪でな。銀色の髪をして、金色の目で、もこもこしたのを背負っとる。
 顔に模様があってな、額に月とほっぺたに二本線があって……」
 七宝の知る殺生丸の特徴を話せば話すほど目の前の美少年と重なって見える。
 七宝はここへきてようやく事の次第を把握しはじめていた。
 どういうわけか、過去の世界の、それも見知らぬ土地にきてしまったらしい。
 深刻な事態に七宝は内心頭を抱えた。
 この殺生丸があの殺生丸の息子だとか、そういう落ちだったらどんなにましだろうか。
 一方の殺生丸も首をかしげていた。
 子狐が言う妖怪の文様は父の家系と母の家系の血が混じって発現するもの。
 その血を持つ妖怪は自分しかいないはずなのに、と。

 過去の世界へ迷い込んでしまうという異常事態でも、七宝はそれほど深刻には考えていなかった。
 骨喰いの井戸を通ればまた元の時代へ帰れることがわかっていたからだ。
 気を取り直すと殺生丸に尋ねかける。
「殺生丸、骨喰いの井戸はどこにあるんじゃろうか?」
 うっかり呼び捨てにしてしまったが、殺生丸は好奇心が先立つのか特に気分を害した様子もなく、
「そんなものは聞いたことがない」
 然らぬ顔で七宝を絶望のどん底に突き落とした。
 あの古井戸はかなり有名な代物のはずで、父親と森の中で暮らしていた七宝ですら小耳に挟んだことがあったくらいだ。
 楓も遠方から妖怪の死骸を捨てに来る者もいると言っていた。
 だのにあの殺生丸が知らないとは考えにくい。
 しかし、と思い至ることがあって七宝の顔から血の気が引いた。
 いくら古いといってもあの井戸が二百年も三百年も経たものとは思えず。
 加えて化け犬は長寿な一族で、水を一杯に吸った毛皮をブルブルと震わせている殺生丸は、七宝の知る彼と比べてはるかに幼い。
 ひょっとすると自分は骨喰いの井戸ができる前の時代に来てしまったのではないか。
「わーん!おらはどうすればいいんじゃー!!」
 殺生丸は急に頭を抱えて泣き出した狐に目を丸くした。
「信じられんかもしれんが、おらは別の世界から来てしまったんじゃー!」
「そうか」
 あんまりあっさりと肯定されたものだから逆に拍子抜けしてしまう。
 泣きわめくのをやめて、しゃくり上げながらも七宝は殺生丸を見上げた。
「し、信じてくれるのか……?」
「おまえが現れる直前に髪がそそける感じがした。初めての感覚だったが、空間のひずみのようなものだったのだろう」
 不安に押しつぶされそうな七宝と対照的に、殺生丸は得体のしれない感覚の正体が判明して晴れ晴れしい面持をしている。
 そしてその歪みこそが七宝をこの場所へ連れ去った元凶なのは明白だった。
「そのひずみとやらはまだあるか!?」
 藁にもすがる思いで悲痛に叫ぶ。
 殺生丸は湖心のあたりを注視して、
「いや、消えている」
 残酷な現実を七宝に突き付けた。

 すっかりしょげ返って静かになった七宝に殺生丸は怪訝そうな顔を向けて首をかしげた。
 他人の機微に疎い彼はややあってからその理由に思い至って、
「戻りたいのか?」
「あったりまえじゃー!!」
 七宝は勢い込んで叫んでしまってから後悔した。
 幼いといえ目の前にいるのは尊大で冷酷な殺生丸。
 いつ機嫌を損ねて手討ちにされるかわかったものではない。
 今にも爪で刺されるのではないかと冷や冷やしていたが、
「一度空間にできた綻びは容易にはなくならず、定期的にあらわれては広がっていくと聞く」
 しばらくすればまた穴が開くかもしれない、と先と変わらぬ調子で着物を身に着けながら言う。
 その言葉は七宝にとって嬉しい情報だったが、相手が殺生丸なだけに諸手を挙げて喜ぶに至らない。
 そんなおどおどした七宝の態度に気が付いて殺生丸は口を尖らせた。
「なにをそんなにおびえる。せつは狐なぞ食わんぞ」
 その仕草や口調が年相応に幼くて、本当に自分と同じくらいの年ごろなのだと合点がいった。
 この殺生丸は七宝の知る彼よりもよっぽどとっつきやすい。その点に関しては胸をなでおろした。
 しかし命の危機はないにしても、状況に変化があるわけでもなく。
「待つしかないかのう……?」
「待つしかないな」
 七宝の心痛な声音におうむ返しに返された。
 一応の解決策はあるが、空間の綻びが開くまで待つと言ってもいつまで待てばよいかわからない。
 そもそも七宝には歪みを感じ取ることすらもできないのだ。
 よもやずっと水の中で待つわけにもいかない。
 相変わらず溜息をついたりうなったりしている七宝に殺生丸が言う。
「よし、せつもともに待ってやろう」
 この状況で地獄に仏だった。
「ほ、ほんとうか!?」
「おまえがどんな具合に消えるのか見てみたい」
 親切心からでなく好奇心からの言葉らしい。
 やはり幼くてもこいつは殺生丸だと気抜けするも、今の七宝にはこの上なく有り難かった。

 殺生丸が着物をすっかり着てしまってすぐのことだった。
 のしのしと重い足音が近づいてきたと思うと、目の前の茂みが乱暴に薙ぎ払われて七宝は肝をつぶした。
 ぬっと姿を見せたのは一つ目の鬼だった。
 ぎょろりとした眼を動かして二人をみつけると不愉快そうに舌を打った。
「犬野郎の小倅が水浴びしてるっつうから来てみれば、もう終えちまったのか。ちんちくりんの狐の裸なんぞおもしろくもねえ」
 七宝を視界から追い出して殺生丸に値踏みをするような視線を送り、下卑た笑いをもらす。
「ここいらの連中はなんでこんなのがおっかねえんだろうな。聞きしに勝る美形じゃねえか、食っちまいてえや」
 世間擦れしていて言葉の意味を推し量ったならば怖気を震うようなことを言う。
 しかしまだ初心な子供のこと。言葉の裏を忖度することを知らない。
「きさまは犬を食う趣味があるのか」
「犬とする趣味はねえよ。そのかあいらしい姿でお相手願いてえぜ」
 微妙に会話が噛み合わず、抜け目なく岩陰に隠れながら七宝も命知らずな鬼だと同情の念を抱いたくらいだ。
 鬼は流れ者の腕自慢だった。事実彼は腕っぷし一つで各地を渡り歩いてきただけの実力もあったのだ。
 これまでにも土着の妖怪たちに恐れられる“主”のような存在を何匹も引き裂いてきた。
 その驕りと相手の幼さへの油断、さらには欲に目が眩み、その全てが仇となった。
 この世には想像もつかないほどに高みにいる妖怪がいる。
 それを悟った瞬間には鬼の体は霧散していた。
「なんだ、威勢の割にはあっけない」
 爪にまとわりついた血糊を払いながら殺生丸は吐き捨てた。
 鬼が殺生丸の細首に手を伸ばしてきた刹那、殺生丸は地を蹴って鬼の懐に飛び込んだ。
 その疾風のような一撃を鬼は身を引いて躱した。
 巨体に見合わぬ敏捷と反射はさすがといえたが、殺生丸の能力は鬼よりも遥かに上手をいった。
 殺生丸は相手に反撃の態勢をとる前にさらに踏み込んで深々と爪を突き刺したのだった。
 爪から送り込まれた猛毒は鬼を骨の髄から溶かし、あっという間にこの世から鬼を消滅せしめてしまった。
「……強いのう…」
 こうまで圧倒的だと惚れ惚れと見入ってしまう。
 七宝もここより未来で殺生丸が戦うのを見たことがあったが、その強さはすでに磨かれ始めているらしい。
 そして味方であるのならこれほどまでに心強い。
 なるほど、りんや邪見が絶対的に信頼を置くのもうなずけた。
「そうだ、狐、名は?」
 初めから鬼などいなかったように殺生丸はたずねてきた。
 その冷淡さにはぞっとするが七宝はもうこの殺生丸をさほど恐れてはいなかった。
「おらは七宝じゃ」
「シッポか。そのままだな」
 七宝の大きな尻尾を眺めながら殺生丸は納得したように言う。
「……まあ、ええわい」
 自分を狐と言ってくれたのだから、ちょっとの間違いぐらいは。


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2011/05/08『雲の呼吸』に続くのかもしれません。
2011/12/13長いので前後に分けました。

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