犬夜叉

雲の呼吸


 人里離れ、山をいくつも越えた先に広い草原があった。
 膝丈ほどの草が青々と茂り、森の境界へ吸い込まれるように続いている。
 魑魅魍魎が跋扈する妖怪の領地。そのただ中に佇む白い人影があった。
 年の頃は未だ十にも満たぬような童の姿。
 しかしその身に纏う気は見た目の幼さを覆すような濃厚さで、人の目には齢を推し量れない。
 事実、その人影は妖怪だった。西国を根城とする大妖怪、闘牙王が長子殺生丸。
 人間が持たぬ色をした白銀の髪に黄金の瞳、文様が浮かび上がる白皙の面は少女と見紛うばかりに美しい。

 そよ風が草原を撫でる以外に音がない世界で、殺生丸はそっと瞼を落とした。
 すると小さな体から迸る妖気が辺りの空気を乱して着物の袂を跳ね上げ、彼が身に纏う柔毛を上へ上へと巻き上げる。
 足元の草が妖気の渦に耐えかねて千切れ飛び、空へ舞い上がった。
 しばらくして妖気の奔流を抑えると、何事もなかったかのように髪も袂も元の位置に収まる。
 しかし殺生丸の周囲だけは黒い地面がむき出しになっていた。
 はらはらと風にさらわれる草葉を見上げる眼に口惜しさが滲む。

 ――……宙に浮くこともできぬとは、妖力の制御ができていない証拠ではないか。

 翼を持たず竜でもない妖怪が変化もせずに空を飛ぶのは強い妖力の証。
 殺生丸の出自である化け犬一族は飛行の技を有するが、未だ彼はその力を発現していなかった。
 それは単純に幼さ故の力の未熟に起因するものだが、それを知りながらも彼は一顧だにしない。
 父のように飛ぶことができない。
 それだけで殺生丸が唇を噛むに値することだ。
 西国の平定を目指し戦場で牙を振るう闘牙王に殺生丸は殆ど会ったことがない。
 己は戦場で隣に置かれることを望んでいるのに、父はそれを許さない。許しを得る機会さえない。
 それは自分がまだ未熟で弱いからだと解しており、だからこそこうして人知れず鍛練を積んでいる。
 誰にも教えを乞わないのは父以外の師事を望まない矜持からだ。
 その父がいない以上、自身の力で乗り越えるしかない。
 最後に姿を見たのはいつのことだったか。殺生丸は人の姿のまま空を往く父の背中を目に浮かべ、彼方を見渡した。
 森の向こうには断崖絶壁がそそり立つ岩山が雲にけぶって見える。

 ――高みにて風に吹かれれば、なにかわかるだろうか。

 数刻ののち、切り立った岩山の頂上付近に殺生丸の姿があった。
 露出した岩から岩へと飛び移る足取りは、森を一つ突っ切ってきたとは思えぬほどに軽い。
 荒涼とした山に緑の息吹はなく、遥か彼方まで見通すことができる。
 爪一枚分の近さで絶壁の縁に立ち、崖下を見下ろした。
 遥か下を森然とした木々の濃い緑が覆い、その向こうに先程まで立っていた草原が広がっている。
 標高の高さに加えて遮るものがないために風が強い。吹き付ける逆風はまるで殺生丸を押し戻そうとするようだった。
 しかし見下ろす高さにも、吹き荒ぶ風にも恐怖は感じず、目を細めることもしない。
 なのに何故飛べないのだろう。

 物思いにふける殺生丸の袖を何者かが引いた。
 竜だった。子牛ほどをした双頭の竜。その首の片方が袂をくわえている。
「なんだ、きさまは。」
 短く問うと、もう片方の首がグルグルと控え目に呻いた。
 竜の言い分を解し、殺生丸は眉根を寄せる。
「この殺生丸が身投げを? たわけたことを。」
 乱暴に袖を引いて袂を取り返した。
 実のところ、いっそのこと飛び降りてみようかと思ってはいたのだが。
 それはともかく、殺生丸はこの竜に興味をひかれていた。
 好奇心にかられ、やはり短く問う。
「きさま、一族はどうした。」
 この竜は足に雲を纏って空を駆け、雷雲と共に群で移動を続けながら暮らしている一族だと記憶している。
 竜は答えた。
 彼らの一族がこの辺りを飛行していた時、何者かの襲撃を受けたことを。
 どこの妖怪に襲われたのか、群れは無事なのか、幼かった彼らには分からない。
 彼らは空から叩き落とされて森の中に落ち、その際に片割れが首の骨を折った。
 首の傷はもう癒えている。だがその時の恐怖から、彼らは空を駆けるための雲を失った。
 それ以来、この住む者のない岩山を根城にしているという。

「愚かな、竜が雲を呼ぶ術を忘れたか。」
 憐みの言葉など知らない殺生丸はそう断じる。
 しかし竜を振り返ったその顔には笑みが浮かんでいた。
 「だが、一族より離れて尚しぶとく生き残るその性根、嫌いではない。」
 その視線は、鱗に覆われた背や首に残る無数の傷跡に向けられている。
 弱肉強食の妖怪の世界で孤軍奮闘、生き残ってきた証だ。
 同情ではなく嘲笑でもない笑みには、ほんの僅かではあるが、己もそうするだろうという賛意が込められていた。
 孤独な竜は照れを覚えた。彼らの皮膚が薄かったなら血色がよくなった顔を拝めたかもしれない。

 今度は竜が訊ねかけた。
 子供の態だが、相当に格の高い妖怪に見受けられる。そんな彼がこんな辺鄙な場所でなにをしているのかと。
「……私とて、飛べぬ愚か者だ。まだ宙に浮くことすらかなわぬ。」
 風に吹かれれば何かわかるかもしれないと思ったが、まるでわからない。
 妖力が足りないわけでもないはずなのだが。
 竜は首をかしげた。目の前の妖怪は人の姿をしているが、犬のにおいがする。
 あまり世界を知らない若い竜は、翼のないものが飛ぶのを己の同族以外に知らなかった。
「私は化け犬だ。父上はまるで歩くかのように空を馳せる。」
 ならその父親に教わればいい。竜の一族も仲間が飛ぶ姿を見て雲の呼び方を覚えるのだから。
 尤もな助言に殺生丸の秀眉が曇る。
「それはできぬ。きっと父上は空も飛べぬ不出来な息子だとお嘆きになる……。」
 そこまで言ってふと我に返った。
 自分はこんな行き摺りの竜に何を話しているのだろう。時間の無駄ではないか。
 本来の目的を思い出して竜から目を離し、再び風の吹く方を見据えた。
 相変わらずの向かい風に殺生丸の細い髪がのたくって暴れる。
 風に嬲られるにまかせたまま今度は空に目を移してみた。
 碧空にふわりと浮いたちぎれ雲が次から次へと後ろに流されていく。

 ――この身を雲にやつせば、飛べるようにもなるのだろうか。

 次の瞬間、天がいたずらを起こした。
 突如襲いかかってきた暴風は追い風。
 逆風に耐えてやや前傾姿勢にあった殺生丸の背を乱暴に叩くと、大きな毛皮はその力を一身に受け、帆の役割をして彼を押し出した。
 瞬く間もなく軽い体は宙に踊り出していた。
 崖の縁から姿を消す直前に靡いた銀糸は絹雲、棚引いた純白の尨毛はまるで綿雲のように見えた。

 雲が墜ちる。
 そう思った瞬間、竜はそれを追って縁へと駆け出していた。

 取りつける岩場がないな。
 殺生丸は危機的な状況にも関わらず冷静に分析していた。
 張り出した崖から落ちたために壁面は遠く、毛皮を伸ばして絡める取っ掛かりもない。
 このまま地面に叩きつけられても死にはしないだろうが、骨の数本で済むとも思えない。
 高い所から落ちたために考える時間があるのは幸なのか不幸なのか。
 その時、横手から足音が聞こえた。あの双頭の竜が絶壁を落ちるように駆け降りているのが見える。
 無茶な、何をする気だ。
 他人事のように見ていると竜は殺生丸が落ちるのに先んじ、ダン、と垂直の壁をを蹴った。

 殺生丸は竜の背中に落ちた。
 このまま竜を下敷きに岩にぶつかるのかと思ったが、先程までの落下感は消えていた。
 代わりに吹きつけるのは柔らかな向かい風。
 殺生丸は驚きに目を見開いて、ふっと小さく笑みを漏らした。
「飛べるではないか。」
 竜は足に雲を刷き、空を駆っていた。
 首の双方からくぐもった鳴き声が聞こえる。それは喜びに満ち溢れた声だった。
 彼らは本来の姿を思い出したのだ。
 雲を呼び、雲と駆けるを喜びとする竜の姿を、その誇りを。

 竜は喜びを全身で表現するように殺生丸を乗せたまま飛び続けた。
 殺生丸は空を飛ぶのは初めてのことだった。この心地よい風に身を任せ、目を閉じる。
 ただ風に吹かれるのとは違う。崖から落ちる感覚とも違う。
 そう、これは……

 ――風のにおい……。

 不意に背中が軽くなったのを感じて竜は足を止めた。
 振り向いてみると殺生丸が空中に佇んでいる。
 髪、毛皮、袂、彼の存在そのものが大気に同調するように揺れている。
 虚空に屹立する白い姿はさながら雲の化身のようだった。

 ふと思い出したように殺生丸が目を開いた。
 見下ろす高さは先程落ちた岸壁よりもさらに高いが、やはり恐怖は感じない。
 吹き荒ぶ風は己の妖気となじんで優雅に彼の周りに纏いつく。

 ――なるほど、風と自分の妖気が混じり合うような……。
 目の前にいる竜が双頭ともきょとんとしてこちらを見ているのが可笑しい。
 空飛ぶ犬を目撃したような、まさにそんな顔をしている。
 間抜け顔に釣られ、彼にしては珍しくククッと声を立てて笑った。
「ついでだ」
 竜の傍らに寄り、再び背に腰を下ろした。
「館まで乗せてゆけ。」
 命令することに慣れた殺生丸の口調に、竜は心得たとばかりに喉を鳴らす。
 西だ、と指さした方へ筋雲を残しながら翔けていった。


「お帰りなさいませ、殺生丸様。」
 殺生丸を出迎えたのは従僕である小妖怪の邪見だった。
 いつものごとく置いてけぼりを食っていたが、真っ先に出迎えるのは家来の鑑といえる。
「して、この竜は一体……ぎゃあ!!」
 出会い頭に、久々に飛んで腹を空かせた竜の片方が邪見の頭にばくりと喰らいついた。
 逃れようと邪見の首から下がじたばたとうごめく。必死に主人に助けを求める声はくぐもって音にならない。
「……止せ。それは食い物ではない。」
 竜は殺生丸の言葉に素直に従い、邪見を開放する。
 よだれでべっとりとした顔を拭いながら邪見は主に訴えた。
「な、な、何奴ですかこやつは!」
「……何奴?」
 何者かと言われてもただのはぐれ竜としか言いようがない。
 雲を取り戻した今なら仲間を探して合流することもできるだろうが、どうやらその気はないらしい。
 言葉は持たないが解すことはできる。乗り心地もいいし、手元に置くのも悪くない。
 だが、ただ竜と呼ぶのは色々と不便そうではある。
「名はあるのか。」
 竜に訊ねかけると双頭が同じ動作で首を振る。
 殺生丸は思案顔をして、

「阿吽」

 短く呟いた。
「きさまの名だ。」
 そう告げると、ふわりと毛皮をなびかせて背を向けた。
 去り際に邪見の名を呼ぶと、
「世話をしてやれ。」
「ははっ! ……って、え? わしが?」
 異を唱える間もなく立ち去ってしまった。
 従僕はいつになく機嫌が良いらしい主を見送り、ぽかんとして途方に暮れる。
 その邪見の腕を阿吽が両側から銜えると、嬉しさの表現なのかそのままブンブンと振り回した。
 邪見はたまったものではない。振り回されながらもどうにか声を絞り出す。
「こりゃ、離さんか! 殺生丸様に言いつけてやるぞ!」
 それは嫌だと口を離すと邪見は目を回してへたり込んだ。
 主人の恣意的な振る舞いは幼さ故のものであってほしいと将来に願いを馳せながら。


 竜は雲と翔け、雲を背に乗せる幸いを手に入れた。
 雲を呼ぶ息吹き、阿吽の呼吸を呼び覚ました、誰よりも美しい雲を。



2009/04/18

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