犬夜叉

血桜


 朧月が照らす夜空を二匹の妖怪が飛翔していた。
 どちらも同じ化け犬の妖怪だが、その大きさの違いから親と子であることがうかがえる。
 淡く光を放ちながら豊かな純白の柔毛を揺らす風情は妖怪でありながら神々しくさえ見えた。
 目的地を見つけ、親犬が高度を落とす。すると子犬のほうもそれに倣った。
 地表に降り立つと二匹の化け犬の体は光に包まれ収縮し、やがて人の姿を形作る。
 現れたのは人間離れした美しい容姿の女と、その女によく似た面差しのまだあどけない年頃の子供。
 人の姿をして人と同じ着物を着ていても、その白銀の髪と黄金に輝く瞳が人間ではないのだと物語る。
 子供はぐるりとあたりを見回して、ほう、と僅かに息を漏らした。
 子供らしからぬほどに感情を動かさぬ彼をわずかにでも感嘆させたのは、桜だった。
 一本の桜の巨木を中心に広がる桜の森。
 辺り一面の桜花が爛漫と咲き誇り、月光を受けて白く輝いている。
 満開の花弁が幾重にも折り重なって見事な花霞を生み出し、風に踊る花吹雪が星屑を降らせたように春の夜を彩っていた。
 その絵に描いたような風景のただ中に二人はいた。

「母上、この場所がなにか?」
 幾度かのまばたきののち、子供は思い出したように傍らの女、己が母親にたずねかけた。
「なに、とは無粋なことを。 そなたもこういうのは好きだろう、殺生丸。」
 なぜこの場所に連れて来たのかをたずねたのだったが、天の邪鬼な母は逸れた返事をよこす。
 再度たずねるのも癪なので、殺生丸はつっけんどんに言う。
「……このような毒にも薬にもならぬ花など…。」
 その花に見惚れていたのは誰なのかと母は気づかれぬように忍び笑いをもらした。
 この母子は母が黒と言えば殺生丸は白、という具合にどうにも仲が良いとは言えない。
 それでも彼女がこうして殺生丸を連れ回せるのは、今はまだ母の妖力が殺生丸を上回っているからだ。
「毒にも薬にもならぬ、か。 だが桜は心を惑わし、狂わせるぞ。 そこがまた美しいと思わぬか」
 問いかけに殺生丸はそっぽを向いた。
 その自分と似たり寄ったりな天の邪鬼ぶりがいっそ可愛らしい。
「私は桜が好きだ。 いや、美しいものが好きだ。」
 秘蔵の景勝地を眺め渡し、花の咲き具合に満足そうに微笑する。
 彼女は多くの妖怪がそうであるように派手な美しさを好むが、同時に静かな風情を解する稀有な妖怪でもあった。
「月光に花吹雪に花霞。 ここにただ一つ足らぬものが何かわかるか?」
「この幽玄な景色にこれ以上なにをお望みなのか。」
 母の吝嗇ぶりにうんざりしたように殺生丸が言うが、対照的に彼女はしたり顔で笑みを深くする。
 殺生丸がこの風景を幽玄だと認めたからだ。
 それをからかうのも面白いかもしれないが、母は当初の目的を果たさんと語りかけた。
「蝶だ。 蝶がおらぬのだ。」
「このような刻限に飛ぶ酔狂な蝶もおりますまい。」
 尤もなことを言う。
 彼女は桜から我が子に向き直り、婉然と笑んで誘うように諸腕を広げた。


「だからそなたを伴ったのだ。 
 のう、殺生丸。 蝶となって共に舞い踊ろうぞ。 最高の舞台だ。」


 言うが早いか彼女は舞い散る花弁をまとって踊り始めた。
 人間の舞のような型や決まり事もない。
 気ままに髪を振り。
 袂をなびかせ。
 爪先で立ち。
 跳ね、回る。
 奏でる楽は葉擦れと風の音のみの静寂な舞台。
 殺生丸は黙したまま、母の動きに合わせて揺れる銀髪を眼で追い続けた。
 乱れる髪の間にのぞく楽しげな笑みは心なしか穏やかに見え、物珍しさも手伝って目が離せない。
 蝶の羽ばたきのようにひるがえる袖は、施された刺繍の金糸が厳峻な光沢を放つ。
 常の煌びやかで絢爛な母と相反するような、それでいて彼女の持つ美しさの印象は変わらない、不思議な舞。
 不意に風に巻き上げられた花びらに目を取られる。
 見上げた先には朧月が淡く輝いていた。


 トン、と小さな足音を聞きつけて母はそちらに目を向けた。
 月の魔力か、桜の魔性に中てられたのか。蝶のごとく袖を広げ、つま先で跳ぶ殺生丸の姿があった。
 妖気で風をつくって舞い散る桜吹雪を遊ばせ、髪が躍る。
 その風に乗って小さな体をふわりと跳躍させ、敷き詰められた花弁の絨毯に爪先を下ろす。
 可憐と優雅をあわせ持った小さな蝶の舞。

 母は我が子の舞を前にしばし舞うのを止めて鑑賞し、独り言には少し大きな声でつぶやいた。
「良い夜だ。」
 月に華に蝶。
 彼女の望んだものが全てそろった舞台。
 それに、観客までいる。
「うぬらも踊らぬか。」
 桜の森の奥を振り返り、こちらを覗き見る無作法な影たちに言う。
 気付かれてはしかたがない、と声がしたが、臭いでとうの昔に感づいていた。
 興味がないので声をかけないでいたが、いい加減に鬱陶しい。
 ぞろぞろと姿を現した妖怪は手に手に刀や槍を握っており、友好的とは言えそうになかった。
「逆らわねば手荒なまねはせぬ。我々ときてもらおうか。」
「良く考えて答えることだな。来てもらうのは貴様でなくともよいのだ。」
「左様、そこの仔犬のほうでもいいし、首だけでもよいのだからな。」
 こちらを見向きもせず舞い続ける殺生丸に視線を向け、にたりと嗤う。
 察するに、闘牙王に敗れた妖怪どもの復讐と言ったところか。
 その対象が本人ではなく妻子な辺り、彼らの小物ぶりがうかがえる。
「ふむ、武骨者は嫌いではない。 だが、致し方あるまいな。」
 闖入者たちに向き直ると、艶やかに微笑んで見せた。
 幾人かが思わずどきりとして後ずさる。
「殺生丸は取り込み中ゆえ、私と踊ろうか。」
 言うや否や、微笑みは耳まで裂けて牙がのぞき、眼を朱に染め、女の姿を捨てて本性を露わにする。
 一瞬ひるみながらも、妖怪たちは「所詮は女だ」とその化け犬に打ちかかっていった。


 ぶちぶちと食いちぎられて四肢が飛ぶ。
 ばきばきと骨の砕ける音がする。
 ずたずたに引き裂かれて臓物がこぼれおちる。
 ぐしぐしと骸の頭が踏みにじられる。
 その度に血煙が宙を舞う。
 白い桜花を朱に染める。
 それらをひらりひらりとよけて子犬が躍る。
 母犬が奏でる断末魔が、妖の舞に興を添えた。


 しばらくして、静かな夜が戻ってきた。
 巨大な化け犬も無骨な妖怪も姿を消し、か弱い身形の女子供二人だけが朧な月に照らされている。
「ああ、なんて薄情な子。 母が襲われているというに一顧だにせぬとは。」
 女は袖で眼元をおおって科を作り、嘆く素振りをしてみせる。
 男ならばそっと手を差し伸べずにはいられない体裁だが、
「あの程度の輩に殺生丸の加勢など要りますまい。」
 そんなものがこの息子に通用するはずもなく、くるくると回りながらすげなく言う。
「可愛げのない。」
 母はあっさりと科を消して口を尖らせた。
 実際に刺客は一人残らず彼女の爪牙にかかり肉塊と化して散らばっている。
 殺生丸は原形をとどめぬ破片を器用によけて足を運んでいた。
 もっとも、母が危機に陥ったとして、殺生丸が手を貸したかは甚だ疑問だが。

「まあ、良い。」
 今宵の目的は果たせたのだ。
 月に照らされた華の舞台。思わぬ僥倖で敷かれた血の毛氈。
 そのなかで舞う我が子の美しきこと。
 彼女にとって月も桜も飾りにすぎない。
 真の主役は蝶を演ずるこの殺生丸なのだから。
「ふむ、絶景かな。」
 一心不乱に舞う愛息子を思う存分堪能する。
 そして桜の根元に散る血だまりを見て嬉しそうに眼を細めた。

「来年は紅の濃い桜が楽しめそうだ。」



2009/10/24

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