とめどなく舞い降り続ける雨粒を、マースは眼鏡のレンズと窓ガラス越しにぼんやりと見詰めていた。
「…うー…」
じめじめした空気に、気の抜けたうめき声が漏れる。
何度も繰り返されたそれは、鬱陶しいと家族に窘められたほど。
「……あーぁ…」
そのマースの憂鬱は、雨が降り続いていることで外で思い切り遊べないということも無関係ではないのだが。
それ以上に…。
――ロイのやつ、どこに行ったんだろうなぁ…。
数日前、突然ロイとその母親であるローザが姿を消したのだった。
今マスタング邸ではエルザが留守を守っているのだが、その理由を教えてはくれない。
――何かあったのかな…?
べたっと机に突っ伏して、マースの心には不安だけが降り積もっていった。
マースが自室でだらだらと悶々していると、家の扉をノックする音が聞こえた。
今この家には自分しかおらず、面倒臭いなぁとぼやきつつもマースは椅子から立ち上がる。
繰り返される小さなノックの音に、もしかしたらという期待が芽生えてきた。
「……マース、いますか…?」
誰も出てこないことが不安になったのか、聞き慣れた声も聞こえる。
何でもっと早く出なかったんだろうと思いながら、マースは急いで扉の鍵を開けた。
――まったく、どこに行ってたのかとっちめてやる!
内心呟きながらも、マースはロイに会えると思うだけで嬉しくなって顔が綻んだ。
「おーっす、ロイ!お前今までどこに行って…」
扉を開いたそこには、ロイが笑って立っている…はずだった。
そこにいたのは、小さな体をぐっしょりとずぶ濡れにしたロイの姿だった。
てっきり、大人用の大きな傘を小さな腕で抱きかかえていると思っていたのに。
そして、濡れているのはその全身だけではない…気がした。
ふと我に返ったマースは急いでロイを中に入れ、バスタオルを引っ張り出す。
とりあえずロイの頭にすっぽりとタオルを被せ、わしわしと髪を拭いていった。
伏せられたロイの目には、薄っすらと水の膜がはられて潤んでいる。
「…っマース!!」
その溢れ出た雫が一滴落ちると同時に、ロイはマースに縋り付いた。
「ロ…ロイ…!?」
顔をマースの胸に擦り付けて、ロイは肩を震わせている。
マースは混乱する自分を何とか宥めながら、黙ってロイの背に腕を回した。
「…えっと、ロイ。どこ…行ってたんだ…? ってか、どうしたんだ?」
自分もロイも幾分か落ち着きを取り戻してきたところで、マースは切り出した。
そしてふと気付く。
――ロイの服…これって喪服…だよな…?
真っ黒な、ロイの身に着けている服。
ということは…そういうことでしかない。
「セント…ラルで…っ、」
しゃくり上げながらゆっくりと紡がれるロイの言葉に、
「おとう…さんの…、…おそうしき…」
マースは耳を塞ぎたくなった。
「――え…?」
言い終えて、その事実を再確認したロイは、更に強くマースにしがみ付いた。
『じゃあマース君、ロイと仲良くしてくれよ。ただし、お嫁にはあげないからね。』
茶目っ気たっぷりに言った、最後に交わした会話を思い出す。
確か、そんな感じだった。ごく普通に、彼は仕事へと戻っていった。
「泣く…なよ…」
眼鏡はしっかりとかけているのに、目の前が霞んで見える。
そういえばこの眼鏡だって、以前彼の母子が錬金術に失敗して駄目にしたお詫びにと新調してもらったものだった。
「泣くなよぉ…ロイ…っ」
雨の音が、異様に耳についた。
カリカリ…
聞き覚えのある、ドアを引っ掻く音…。
静かに、扉が開いた。
「今晩は。」
鈴の鳴るような声。ただ、その声が今は少し沈んで聞こえる。
大型犬をともなった、綺麗な女の人。
「やっぱりここね、ロイ…。」
息子同様、彼女も全身濡れ鼠だった。
ロイは慌ててマースの背中に隠れた。
「ロイ…?」
マースとローザが不思議そうに訊ねると、ロイはごしごしと目元を拭っている。
「泣かない…もんっ」
それでもまだ涙に濡れた顔を母親に向けた。
「男は女の人をまもるものだって、お父さん言ってた! だから…泣かない…っ!!」
溢れそうになるのを懸命にこらえ、ローザを見据える。
「僕は…おとこだから…っ、お母さんは女の人だから…だから…っ!」
濡れて光る大きな瞳に、噛み締める小さな唇に、子供ながら強い意志が宿る。
そしてその面影は…
そう言って求婚してきた、彼のものに似ていた。
「もう…ロイはどこまでもあの人の子なんだから…。」
葬儀中は気丈に振る舞い、真っ直ぐ前を向いていた彼女の瞳に、薄いベールがかかる。
「でもね、お父さんはもう一つ、言っていたでしょう…?」
手を伸ばして、まだまだ小さな息子を抱き寄せる。
「『大人が、子供を守るものだ』…って。」
子供特有の高い体温が、冷えたローザを包み込む。
――救われている。
私は大丈夫だ。
この子という存在があれば、私は“間違い”を犯したりはしない…。
ずっと頭から離れなかった“人間”の主成分量が、“禁忌”の構築式が、たちどころに霧散していく。
“彼”が、この小さな体に宿っているから…。
「涙は弱さなんかじゃないから、泣いてしまったっていい。」
そう思いたいだけなのかも知れない。
現に彼女の黒々とした瞳からは、真珠の粒のような涙が零れ落ちていたから。
それでも、
「泣いてしまっても、また前を向けるなら、それは強さの証だから…。」
彼女はそう信じていた。
室内に降る三人の雨音は、
大地を叩く音に掻き消されていた。
2005/05/19
ロイの父親は夭折したイメージがあります。 人体練成は…可能性があるならやってしまいたくなりますよね…。