今日は湿度が高い。
当然のことだ。朝から雨が降っているのだから。
昼を過ぎても、雨が止む気配はなかった。
人通りは少なく、雨が地を打つ音が響き渡る。
特に、この狭い路地裏では。
――この状況、どうしたものか。
距離を置いて自分と対峙する男を見て、彼は他人事のように思った。
男の額には大きな傷があり、褐色の肌で色味の濃いサングラスをかけている。
「……貴様は、それでも国家錬金術師か…?」
そう言ったのは、男の方だ。
「いかにも。焔の錬金術師の二つ名を冠するロイ・マスタング。地位は大佐だ。」
初対面ではないにも関わらず、あっけらかんと言ってのけるところが彼らしい。
「…その焔が護衛も連れず、こんな雨の中何を…。」
まさか司令官自らが囮となっているとは思えないが、男は辺りの警戒を怠らなかった。
「……雨が、降っていたから。」
彼の言葉に、男は疑念の眼差しを向ける。
雨と国家錬金術師の一人歩きと、一体なんの関係があるというのか。
彼は薄暗い空を見上げた。建物に切り取られた、狭い空を。
「…雨は、私を兵器から普通の人に戻してくれるから。」
目に雫が入ることを厭わずに。
「雨は、私を人間でいさせてくれるから…。」
己の罪を思い返しながら、彼は空を見上げ続けていた。
「――私は、雨を待っていたんだ…。」
その呟きは、何時の誰に向けてのものなのか。口元にうっすらと浮かべた笑みは、自分を卑下しているようにも見える。
「…降らなかっただろう。――あの地では。」
「ああ。――降ってはくれなかった。」
彼は罪の始まりの空を、男は憎しみの始まりの空を、その脳裏によみがえらせていた。
他人である二人の、東にある共通の情景を。
傷の男の瞳がサングラスで見えないように、彼の瞳も顔に張り付いた長めの前髪で窺えなかった。
雨はまだ、降り続いている。
「……殺さないのか?国家錬金術師が憎いのだろう?今、焔の錬金術師は無防備だ。」
いつの間にか、彼は男に視線を戻していた。
「ホークアイ中尉の腕でも当たらなかったんだ。私の銃弾など、かすりもしないだろう。」
事実とはいえ、どうしてこのようなことを言ったのか、彼自身にも分からなかった。
男が一歩、歩を進めたのが見えた。彼は濡れた地面に視線を落とす。
「……やるなら今だぞ。」
「………そうだな。」
視界に、近づいてきた男の靴が入った。右手を持ち上げるのを気配で感じる。
だが。
「貴様が、焔の錬金術師ならばな。」
男は彼の横を通り過ぎた。
「焔の出せぬ貴様は、ただの無能な国軍大佐だ。殺す意味がない。」
上げられた男の右手は、すれ違いざまに彼の肩を軽く叩いた。だが、それだけで何も起こらなかった。
「雨の降らぬ日に、また会おう。――その時には殺す。」
「……っ、傷の…!私は…、こんな私でも、人間でいいのか…!?」
彼は思わず、立ち去ろうとする男の背に問いかけた。
憎しみを向ける、赤い瞳を持つ男に。
雨の日だけでも、人として見てくれるのかと。
「…己れが憎いのは人間兵器だ。――人間でなければ」
傷の男は振り返り、サングラスを押し上げて掛け直した。
やはり、レンズの向こうにある赤い瞳から感情を読み取ることはできない。
「涙は流さん。……違うか、ロイ・マスタング?」
もしかして、自分は泣いていたのだろうか。全身濡れ鼠の彼には、分からなかった。
彼は罪を犯し、男はそれを罰する。
男は憎み、彼は憎まれる。
二人を結ぶのは、そんな脆くて悲しい糸だけだった。しかし、今は互いにその糸を手放していた。
立ち去る男の後姿を、久しぶりの陽光が照らす。それを彼はぼんやりと見送った。
雨はとっくに止んでいたが、傷の男が振り返ることはなかった。
2005/03/14
スカロイの基本(?)はやっぱり雨ですね。
ロイが東部にいるころの話ですが…ありえませんね。そこはスルーで。